毛利氏の伊予出兵
河野・毛利連合軍はこの肱川を越えて鳥坂峠に至った
戦争:戦国時代
年月日:1567年(永禄10年)11月から、翌1568年(永禄11年)12月
場所:伊予国全域
結果:河野・毛利連合軍の勝利
交戦勢力
河野・毛利連合軍土佐一条・伊予宇都宮連合軍
指導者・指揮官
河野軍
村上通康
平岡房実
村上吉継
毛利氏の伊予出兵(もうりしのいよしゅっぺい)は、1567年(永禄10年)から翌年にかけて行われた、安芸国の戦国大名・毛利氏の伊予国への出兵である。目次 当時の伊予国は河野氏が中心として治めていたが、その力は伊予国全体に及ぶわけではなかった。宇和郡の西園寺氏、喜多郡の宇都宮氏等の中小国人勢力が跋扈し、離合集散を繰り返す状況であった。永禄の頃は、河野氏と西園寺氏の西園寺公広が手を結び、それに対抗する形で、宇都宮氏当主・宇都宮豊綱は大洲城を居城とし、土佐国西部を支配する土佐一条氏の一条兼定が連携して、お互いに覇を競っていた。しかしこの勢力争いの構図の裏には、安芸国・備後国・周防国・長門国・石見国・出雲国を支配する大大名となっていた毛利氏と、豊後国を中心に豊前国・筑前国・筑後国・肥後国へ勢力を拡大させていた大友氏の対立が大きく絡んでいた。 当時の河野氏当主は河野通宣で最初は大友義鑑の娘を妻としていた[1]が、後に毛利元就の娘婿であった宍戸隆家の娘を妻としており(元就から見れば孫娘)、毛利氏は河野氏と姻戚関係にあり、また瀬戸内海の支配権を巡って村上水軍とも協力関係にあった(なお、近年の説として宍戸隆家の娘は最初は小早川隆景の養女として村上水軍の長で河野氏の重臣でもあった村上通康に嫁ぎ、後述のように通康が没した後に河野通宣と再婚したとする説がある[2])。また、河野通宣は永禄5年(1563年)頃には中風に倒れて療養中で、以後の河野氏家中は来島通康や平岡房実ら重臣によって運営されていた[3]。一方、大友氏は土佐一条氏とも姻戚関係にあり、土佐一条氏を大友氏が支えていた。
1 背景
2 経過
2.1 土佐一条氏は南伊予へ侵入し、宇都宮豊綱呼応する
2.2 河野通宣・村上通康、毛利氏に救援を依頼する
2.3 高島の戦い・鳥坂峠の戦い
2.4 小早川隆景の伊予上陸
2.5 村上吉継・乃美宗勝による伊予国平定
3 毛利氏の伊予出兵の意義
4 脚注
5 参考資料
6 関連項目
背景