毛利幸松丸
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例毛利 幸松丸
毛利幸松丸像(部分)(日本民藝館蔵)
時代戦国時代
生誕永正12年(1515年[1][2]
死没大永3年7月15日[1][2]1523年8月25日
別名@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}毛利久元[要出典]
戒名明巖紹光大童子[1][2]
墓所広島県安芸高田市吉田郡山城跡内
主君大内義興尼子経久
氏族大江姓毛利氏
父母父:毛利興元[1][2]
母:高橋久光(または高橋元光)の娘[1]
兄弟幸松丸、女(山内豊通室→小早川興景室→行松正盛室→杉原盛重室)[3][2]
妻なし
子なし
テンプレートを表示

毛利 幸松丸(もうり こうまつまる)は、戦国時代の人物。安芸国国人である毛利氏の当主。父は毛利興元
生涯

永正12年(1515年)、安芸国国人毛利氏の当主である毛利興元の嫡男(第二子)として生まれる[2]

永正13年(1516年8月25日に父・興元が病死したため家督を継いだが[1][2]、幸松丸はまだ僅か2歳であったため[4]、叔父の毛利元就と外祖父の高橋久光が後見役となった[5]。当初は高橋久光の発言力が強かったが、久光が戦死した後は元就が実権を握った。

永正15年(1518年8月30日備後国赤屋での合戦において、幼少の粟屋赤法師(後の粟屋元親)の名代として出陣した則長八郎右衛門尉が戦死したため、その戦功を賞するために同年11月6日に幸松丸の名義で粟屋赤法師宛てに感状を発給した[6]。感状の形式は毛利興元が発給した感状と同じ書下形式であったが、幸松丸はまだ4歳だったため花押は添えられていない[6]

大永2年(1522年8月10日、息災延命、垣受快楽、武運長久、一家繁昌、子孫安栄、城内富貴、幸祐自在を願って行った清神社の棟上造工において大檀那となり、棟札には「大江朝臣幸松」という名が記されている[注釈 1][7]

大永3年(1523年)6月、出雲尼子経久が安芸国に攻め込むと先鋒として亀井秀綱を派遣し、毛利氏に対しても当主である幸松丸の従軍を要求した[8]。毛利氏は要求に応じて幸松丸と元就が揃って出陣し、大内氏の要衝である安芸国の鏡山城攻め(鏡山城の戦い)に参加し、6月28日に鏡山城が陥落したが[5]、鏡山城攻めから凱旋する道中にて発病し、同年7月15日に病死した[9]。享年9[注釈 2][1][2][9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef