毛利 就盈(もうり なりみつ、元文4年(1739年) - 安永5年2月13日(1776年4月1日))は、長州藩一門家老である厚狭毛利家の7代当主。
父は徳山藩主毛利広豊。養父は毛利元連。正室は毛利元連の娘千代菊。子は毛利就宣室。養子に毛利就宣。通称は駿河、遠江守。 元文4年(1739年)、徳山藩主毛利広豊の六男として生まれる。叔母の嫁ぎ先、厚狭毛利家毛利元連の婿養子となり、藩主毛利重就の偏諱を受け就盈と名乗る。宝暦11年(1761年)、養父の元連が藩主後継問題で咎めを受け隠居したため、家督を相続する。同年、幕府巡見使が萩を訪れた際に防火責任者となる。宝暦14年(1764年)、朝鮮通信使来朝の際、接待役を務める。明和7年(1770年)、萩留守居役を仰せつかる。明和9年(1772年)に当職(国家老・執政)、同年に江戸当役。 安永5年(1776年)2月13日死去。享年38。家督は養子の就宣が相続した。
生涯
参考文献
「山陽町史」
表
話
編
歴
分家・支流
徳山家
就隆
元賢
元次
元尭
広豊
広寛
就馴
広鎮
元蕃
元功
元秀
元靖
就擧
就慶
長府家
元清
秀元
光広
綱元
元朝
元矩
匡広
師就
匡敬
匡満
匡芳
元義
元運
元周
元敏
元雄
元海
清末家
元知
元平
政苗
匡邦
政明
元世
元承
元純
元忠
元恒
元茂
右田家
元政