毘伽可汗
[Wikipedia|▼Menu]

毘伽可汗(呉音:びがかがん、漢音:ひきゃかがん、?音:Pig? k?han、683年 - 734年)は、東突厥第二可汗国期の可汗阿史那骨咄禄の長男。姓は阿史那氏、名は默棘連(ぼくきょくれん)という。可汗号である毘伽可汗はビルゲ・カガン(古テュルク語: - Bilga qaγan)[1]の漢字表記名。
生涯

阿史那骨咄禄の子として生まれる。

阿史那骨咄禄が天授690年 - 692年)の初めに病死すると、その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の阿史那默啜が代わって可汗位に就いた。

開元4年(716年)6月、阿史那默啜が九姓(トクズ・オグズ)の抜曳固(抜野古、バイルク)部に殺されると、小殺(しょうシャド:官名)であった默棘連は後を継いで大可汗となり、毘伽可汗(ビルゲ・カガン)と号した。この即位に際して、毘伽可汗の弟である闕特勤(キュル・テギン:官名)は旧部を糾合し、阿史那默啜の子の小可汗及び諸弟を殺すなどして、毘伽可汗の即位に重要な役割を果たした。このとき毘伽可汗は闕特勤に位を譲ろうとしたが、闕特勤が固辞したため、彼を左賢王に封じ、東突厥軍の兵馬を統帥させることにした。また、默啜時の衙官であった暾欲谷(トニュクク(英語版))を任用し、彼の娘である婆匐を可敦(カトゥン:皇后)とした。

ある時、降戸[2]の阿悉爛らが帰順してきたので、毘伽可汗はの北辺を侵そうとした。しかし、暾欲谷が「今はその時ではありません」と毘伽可汗を諫めた。また、毘伽可汗が城壁の修復と、仏教道教の寺院の建築を提案した時も、暾欲谷は「遊牧民がすることではありません」と諫めた。このようにして暾欲谷は毘伽可汗政権のブレーン的存在となり、毘伽可汗もまた彼の献策に従った。

開元8年(720年)9月、暾欲谷は甘州涼州を寇し、涼州都督の楊敬述を敗走させ、契?部落を掠めて帰った。11月、突厥は涼州を寇し、人を殺して羊馬数万計を掠めて去った。開元9年(721年)秋、これに対し唐は抜悉蜜(バシュミル)・契丹の兵を発し、東突厥へ進軍し、毘伽可汗を捕えようとした。

開元14年(726年)11月、東突厥は遣使を送って唐に入朝した。

開元15年(727年)9月、毘伽可汗は大臣の梅録啜(ブイルク・チュル)を唐へ入朝させた。閏月、突騎施(テュルギシュ)の蘇禄吐蕃の賛普は安西を包囲し、副大都護の趙頤貞はこれを撃って敗走させる。

開元22年(734年)、毘伽可汗は大臣の梅録啜に毒を盛られるが、すぐには死ななかったので、梅録啜を斬り、その一味を滅ぼしたうえで死んだ。国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。
妻子
可賀敦(カガトゥン:皇后)


骨咄禄婆匐可敦…暾欲谷の娘




伊然可汗

登利可汗




大洛公主

毘伽可汗の碑文

毘伽可汗の死後、彼の甥であるヨルリグ・テギンによってオルホン河畔のホショ・ツァイダムに碑文が建てられた。これを『ビルゲ・カガン碑文』といい、その発見地から『ホショ・ツァイダム碑文』・『オルホン碑文』とも呼ばれる。
脚注^ ビルゲ・カガンとは「賢明なる可汗」の意。
^ 咸亨年間(670年 - 674年)に、東突厥諸部落の来降附者の多くは、豊州・勝州・霊州・夏州・朔州・代州の六州に移住させられた。これを降戸と言う。

参考資料

旧唐書』(本紀第八、列伝第一百四十四上 突厥上)

新唐書』(列伝一百四十上 突厥上、列伝第一百四十下 突厥下)

佐口透山田信夫護雅夫訳注『騎馬民族誌2正史北狄伝』(1972年平凡社










東突厥可汗

啓民可汗587-609 / 始畢可汗609-619 / 処羅可汗619-620 / 頡利可汗620-630 / 乙弥泥孰俟利?可汗639-644 / 車鼻可汗646-650 / 阿史那泥孰匐679-680 / 阿史那伏念680-681 / 阿史那骨咄禄682-691 / 阿史那默啜691-716 / 毘伽可汗716-734 / 伊然可汗734 / 登利可汗734-741 / 骨咄葉護741-742 / 頡跌伊施可汗742-744 / 烏蘇米施可汗742-744 / 白眉可汗744-745

典拠管理データベース
全般

FAST

VIAF

WorldCat

国立図書館

アメリカ


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:9490 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef