比奈多乃神社
比奈多乃神社の航空写真
(2020年6月16日)
所在地静岡県掛川市上土方落合837番地
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度43分22.54591秒 東経138度1分56.01619秒 / 北緯34.7229294194度 東経138.0322267194度 / 34.7229294194; 138.0322267194 (比奈多乃神社)
比奈多乃神社(ひなたのじんじゃ、英語: Hinatano Jinja)は、静岡県掛川市の神社である。古代社格制度における社格は式内小社。近代社格制度における社格は村社。かつては天馬駒神社(てんぱくじんじゃ、英語: Tempaku Jinja)とも呼ばれた。 静岡県掛川市上土方落合に鎮座する神社である。建比奈鳥命を祀っており[1]、上土方落合の小字である日向ヶ谷の住民を氏子としている[1]。建比奈鳥命は、天穂日命の子神とされており[1]、経津主命とともに国譲りの際に活躍したと伝えられる[1]。延喜式神名帳に式内小社として記載されていた「比奈多乃神社」[2]に比定されている[3]。 いつごろ創建されたのかは不明である[1]。しかし、927年(延長5年)に成立した『延喜式』の巻9に、遠江国城飼郡の小社として「奈良神社」[2]と「比奈多乃神社」[2]の2社が記載されていることから[2][† 1]、少なくとも創建は927年(延長5年)より古いと推定される。この『延喜式』は格式と呼ばれる平安時代の法典であり、醍醐天皇の命に基づき藤原時平や藤原忠平らにより編纂された。その巻9と巻10に記された神社の一覧がいわゆる「延喜式神名帳」であり、そこに記載された神社は式内社と呼ばれた。 創建以来、遠江国城飼郡落合村の日向ヶ谷の地に鎮座する[† 2]。中世に入ると「天馬駒神社」と呼ばれたとされる[1]。神仏混淆の世を迎えると、近隣の寺院である華嚴院の鎮守社と位置づけられ[1][3]、天馬駒神社の祭祀も華嚴院により執り行われるようになる[3]。 明治時代に入ると、1878年(明治11年)に社名を「比奈多乃神社」に戻した[1]。近代社格制度における村社に列せられたことから[1]、1945年(昭和20年)までは行政により祭祀が管理された[1]。 比奈多乃神社の由緒書きには「延喜式神名帳に登載されている城飼郡(城東郡)二座のうちの一座」[1]と明記されており、比奈多乃神社は延喜式神名帳に記された式内社とされている[3]。ただし、延喜式の成立は平安時代に遡るため、時代の変遷につれて後裔が特定できなくなった式内社も多数存在する。そのため、国学者らによって式内社の後裔を比定する研究が永年にわたって進められており、延喜式神名帳の「比奈多乃神社」[2]の後裔についても度々論じられてきた。 江戸時代の国学者である伴信友は、古社について研究し『神名帳考証』を著した。そのなかで、延喜式神名帳の「比奈多乃神社」[2]についても論じており、その祭神は「天菩比命之子建比良鳥命遠江國造等之祖也」[4]と述べている。
概要
祭神
建比奈鳥命[1]
歴史静岡県掛川市上土方落合の航空写真(2020年6月16日)。比奈多乃神社は上土方落合の中央やや北寄りに位置しており、かつて比奈多乃神社の祭祀を担っていた華嚴院は上土方落合の北端に位置している
式内社に関する考証
延喜式日本古典全集に収録された『延喜式』巻9の「比奈多乃神社」[2]について記されている部分[2]
神名帳考証伴信友全集に収録された『神名帳考證』の「比奈多乃神社」[4]について論じている部分[4][† 3]