英国で造船された日本海軍の軍艦「比叡 (コルベット)」とは異なります。
比叡(ひえい)
昭和14年(1939)12月、第2次改装後の公試運転を実施する「比叡」。[1]
基本情報
建造所横須賀海軍工廠[2]
運用者 大日本帝国海軍
艦種巡洋戦艦[3] → 戦艦[4] → 練習戦艦[5]
級名艦型名なし巡洋戦艦(1912年[3])
→ 金剛型(巡洋戦艦)(1926年[6])
→ 金剛型(戦艦)(1931年[4])
→ 艦型名なし練習戦艦(1932年[5])
艦歴
起工1911年11月4日[2]
進水1912年11月21日[2]
竣工1914年8月4日[2]
最期1942年11月13日、第三次ソロモン海戦後に自沈
除籍1942年12月20日[7]
要目(竣工時→改装後)
排水量常備:27,500 t→
基準:32,156 t、公試:36,600 t
全長214.6m → 222.0m
最大幅28.04m → 31.0m
主機パーソンズ式タービン2基4軸 64,000馬力
→ 艦本式タービン4基4軸136,000馬力
速力27.7235 kt[8]
25 kt(第一次改装)
29.7 kt(第二次改装)
航続距離8,000浬(14 kt時)
→ 9,800浬(18 kt時)
乗員1,221名 → 1,222名(1,360名?)
兵装45口径毘式35.6cm連装砲4基
50口径四十一式15.2cm単装砲16基
53cm水中魚雷発射管
→
45口径毘式35.6cm連装砲4基
50口径四十一式15.2cm単装砲14基
八九式12.7cm連装高角砲4基
九六式25mm連装機銃10基
13mm4連装機銃2基
装甲水線203mm
甲板19mm
主砲前盾250mm
副砲廊152mm
(全て竣工時)
搭載機水上機3機、呉式2号射出機1基(1940年)
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比叡 (ひえい)は、大日本帝国海軍(以下日本海軍)の巡洋戦艦[3]、後に戦艦[4]、練習戦艦[5]となる。 軍艦 比叡は金剛型戦艦の2番艦である。計画時は装甲巡洋艦だったが、イギリスに発注され同地で建造された金剛型巡洋戦艦1番艦金剛の技術を導入し、日本で建造された。巡洋戦艦として竣工したが、改造により戦艦へ艦種変更された。第一次世界大戦後の海軍休日にともなう軍縮条約(ロンドン海軍軍縮会議)により武装や装甲、機関の一部を撤去し、練習艦として運用される[9]。一方で、昭和天皇の御召艦として周知され、親しまれることになった[9]。軍縮条約失効後の改装時に大和型戦艦のテスト艦として新技術が導入され、第二次世界大戦(大東亜戦争)においては南雲機動部隊の一艦として行動した。1942年(昭和17年)11月12日、第三次ソロモン海戦第1夜戦で損害を受け、日中の空襲により放棄され沈没した[10]。練習戦艦のまま除籍[11]。 比叡の艦名は京都の鬼門に位置する比叡山にちなんで名付けられた[12]。艦内神社として同山山麓の日吉大社が奉祀された[13]。『比叡』の名を持つ日本海軍の軍艦としては、金剛型コルベット比叡に続く二代目[14]。戦後、海上自衛隊のはるな型護衛艦「ひえい」に引き継がれた。 1906年(明治39年)10月、イギリスが画期的な戦艦(いわゆる弩級戦艦)ドレッドノートを就役させると、日本海軍が建造中だった薩摩型戦艦をはじめ、世界各国の保有戦艦は前弩級戦艦として一挙に旧式化した[16]。1906年(明治39年)、同じくイギリスがインヴィンシブル級巡洋戦艦を完成させると、日本海軍が1905年(明治38年)に就役させたばかりの筑波型巡洋戦艦や1907年(明治40年)就役の鞍馬型巡洋戦艦も旧式装甲巡洋艦の烙印を押された[17]。斎藤実海軍大臣はイギリスの技術導入もかねてヴィッカースに装甲巡洋艦を発注、同社は弩級戦艦エリンを基礎に巡洋戦艦を設計し、金剛型巡洋戦艦1番艦金剛の建造が開始された[18]。 仮称艦名卯号装甲巡洋艦は1911年(明治44年)6月5日、部内限りで比叡(ひえい)と命名され[19]、「金剛」より10ヶ月遅れた11月4日[20]、横須賀海軍工廠で「卯号装甲巡洋艦」として発注・起工[21][22]。1912年(大正元年)11月21日の比叡進水式には大正天皇が臨席した[23]。比叡は卯号巡洋戦艦として進水し[24]、命名式後に軍艦 比叡となった[25][26]。同日附で巡洋戦艦として登録[27]。竣工・引渡[20]は1914年(大正3年)8月4日である[28]。
概要
艦名
艦歴
巡洋戦艦比叡大正元(1912)年11月21日、巡洋戦艦「比叡」は進水。進水式では即位間もない大正天皇の行幸で命名が行われたという。写真は進水後に工事を続けている比叡。[15]