母里藩(もりはん)は、松平家時代初期から置かれた松江藩の支藩。江戸時代中期までは神戸藩(かんべはん)と呼ばれた。能義郡母里(現・安来市伯太町西母里)の母里陣屋
に藩庁が置かれた。寛文6年(1666年)4月29日、松江藩主・松平直政の三男・隆政が1万石を分与され立藩した。この隆政のときは蔵米支給の内分分知で、2代・松平直丘時代の貞享元年(1684年)に所領が確定した。
隆政には子がなく、延宝3年(1673年)に死去した。死に際に弟・松平直丘を末期養子に願い出たが認められず、一時廃藩となったが、1か月後に隆政の遺領1万石が直丘に与えられ、相続が認められた。
3代・松平直員は暗愚で、藩政を混乱に陥れている。4代・松平直道は嗣子がなかったため、家臣の平山弾右衛門
が自身の子を藩主の落胤と称して藩の乗っ取りを企てた。しかし本家松江藩の知るところとなり、弾右衛門は死罪となり、直道の弟・直行が5代藩主となった。この頃になると藩財政は窮乏し、石見銀山から拝借銀を重ねて自転車操業を繰り返していた。また山間の地である母里藩では農業がうまくいかず、主だった産業や特産物もなかったため、財政再建の策もなかった。藩主は参勤交代を行わない定府の大名だった。江戸藩邸は今のブラジル大使館付近(港区北青山二丁目)にあり、対外的な執務は家老(200石から400石)の小沼氏らが、また国許は国家老市川氏、狩野氏らが政務を執り行っていた。
明治2年(1869年)、版籍奉還により母里藩となった後、明治4年(1871年)の廃藩置県により母里県となり、同年松江県、広瀬県、浜田県の一部(隠岐地方)と合併して島根県となった。最後の藩主で知藩事も務めた松平直哉は、明治17年(1884年)に子爵となっている。 1万石 (1666年 - 1673年、1673年 - 1871年) 先代
石高など
石高:1万石
実高:9500-1万0500石程度(推計) 17世紀後半には1万5000石という推計もある
集落:20か村(正保国絵図、郡村誌などより)
人口;5000-1万0000人程度(1700年初頃=正徳年間、郡村誌、奥野家文書郷土母里、などより推計)
藩主:越前松平家分家(極冠は従五位、帝鑑間詰)
菩提寺
一乗寺 島根県能義郡伯太町井尻1927 浄土宗
天徳寺 港区虎ノ門
家紋:丸三九葉三葉葵巴(裏紋は六つ葵・三鐶三九葉三葉葵巴)
歴代藩主
母里松平家
隆政
直丘
直員
直道
直行
直ロ
直方
直興
直温
直哉
外部リンク
⇒母里(松平兵庫頭直行) 。大名家情報 - 武鑑全集
松江藩の一部行政区の変遷
1666年 - 1871年 (神戸藩→母里藩→母里県)次代
島根県
歴
大政奉還から廃藩置県までの間に存在した藩
慶応3年(1867年)旧暦10月 - 明治4年(1871年)旧暦7月
北海道地方
松前藩(館藩)
東北地方
黒石藩
弘前藩
八戸藩
●○盛岡藩(白石藩 → 盛岡藩)
盛岡新田藩(七戸藩)
一関藩
久保田藩(秋田藩)
秋田新田藩(岩崎藩)
亀田藩
本荘藩
★矢島藩
出羽松山藩(松嶺藩)
仙台藩
鶴岡藩(大泉藩)
新庄藩
○長瀞藩(大網藩 → 龍ヶ崎藩)
天童藩
○山形藩(朝日山藩)
上山藩
米沢藩
▲米沢新田藩(米沢藩)
○福島藩(重原藩)
下手渡藩
二本松藩
○会津藩(斗南藩)
中村藩
三春藩
○守山藩(松川藩)
磐城平藩
湯長谷藩
泉藩
○白河藩(棚倉藩)
関東地方
沼田藩