?丘倹
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?丘倹

鎮東将軍・安邑侯
出生生年不詳
司隸河東郡聞喜県
死去正元2年閏1月21日(255年3月16日
豫州汝南郡慎県
?音Guanqi? Ji?n
仲恭
主君曹丕曹叡曹芳曹髦
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?丘 倹[1](かんきゅう けん、? - 正元2年閏1月21日(255年3月16日[2])は、中国三国時代の武将。は仲恭。司隸河東郡聞喜県の人。父は?丘興。弟は?丘秀。子は?丘甸・?丘宗ら。

遼東半島高句麗の平定に功を挙げたが、司馬師の専横に反発して『?丘倹・文欽の乱』と呼ばれる反乱を起こした後、敗死した。
生涯
北方遠征

魏の曹丕の時代に平原侯の文学となる。太和元年(227年)、曹叡皇帝に即位すると尚書郎、次いで羽林監に移る。曹叡が東宮にいた時(皇太子時代)からの旧知の間柄で、親任を受けた。地方に出て洛陽の典農となり、曹叡が農民を徴発して宮殿を造営すると、これを諌めた。青龍3年(235年)には荊州刺史に転じた[3]

青龍4年(236年)、幽州刺史・度遼将軍・使持節・護烏丸校尉となり[3]遼東郡の平定を曹叡に提案し、これを認められる[4]

景初元年(237年)、遼遂に駐屯し、5千余人の部下を率いる遼西烏丸都督率衆王の護留や、右北平烏丸単于の寇婁敦らを降伏させる。遼東を支配する公孫淵との戦いについては、『三国志』?丘倹伝は「公孫淵は?丘倹と戦ったが、不利となり撤退した」、明帝紀は「長雨により遼水が氾濫したため、詔勅により?丘倹の軍を撤退させた」、公孫淵伝(公孫度伝附)は「(公孫淵が)遼遂で?丘倹らを迎撃し、不利となった?丘倹らは撤退した」と記す。いずれにせよ撃滅を免れた公孫淵は魏から完全に自立し、燕王を自称する[5]。景初2年(238年)、魏は司馬懿を大将、?丘倹を副将[6]とする軍を送り、今度は公孫淵の撃滅に成功(遼隧の戦い)。?丘倹は安邑侯に進爵し、食邑3900戸となる。

正始年間、1万の兵を率いて高句麗平定に出陣。句麗王の位宮率いる2万の兵と梁口で戦い、勝利を収める。敗走する位宮を追撃して句麗の都を破壊し、四桁に上る首級と捕虜を得る。位宮は妻子のみを連れて逃げ隠れた。翌年に再度の征伐が行われると、位宮は買溝まで逃走。?丘倹の命でこれを追撃した玄菟太守王?は、粛慎氏の南界の地まで至り、石碑にその功績を刻んだ。誅殺した者、降伏させた者は8千余人、論功行賞で封侯された者は百余人を数えた(年次については?丘倹#遺跡の項に後述)。
呉との戦い

正始9年(248年[3]に左将軍・仮節監豫州諸軍事・豫州刺史、のち鎮南将軍に昇進する。

嘉平4年(252年)正月、『晋書』景帝紀は司馬師が魏の大将軍となり、善政が敷かれ人材が揃ったと称える。その中で四方を都督した人物として、諸葛誕王昶陳泰胡遵と共に?丘倹の名が挙げられている。

同年4月、敵国の皇帝孫権が崩御。王昶・胡遵・?丘倹はそれぞれ上奏文を奉り、この機を狙って呉の討伐を提案する[7]。11月に魏は三方面から呉に侵攻。?丘倹は武昌へ進軍するが、東興で諸葛誕らの軍が呉の諸葛恪に敗れ、全軍撤退に至った(東興の戦い[8]。諸将の責を問う声も挙がったが、司馬師は自らに責があるとして咎めなかった[9]。?丘倹は諸葛誕と任地を交替し、鎮東将軍・都督揚州諸軍事に移った。

嘉平5年(253年)、諸葛恪が合肥新城を包囲したが、司馬師の指示に従ってこれを守り抜いた(合肥の戦い#第五次戦役(253年)[9]

嘉平6年(254年)2月、合肥の戦いに際し、敵の捕虜となっても忠節を守って死んだ兵士の劉整・鄭像を称えて上奏。両名は関中侯を追贈され、子がその爵位を継いだ[10]。また同月、?丘倹と親しかった夏侯玄李豊らによる司馬師排斥のクーデター計画が発覚。夏侯玄らは処刑され、皇帝曹芳が廃位、新帝として曹髦が即位した。
?丘倹・文欽の乱

正元2年(255年)正月、西北の空の終わりにまで至る数十丈の長さの彗星が現れ、?丘倹はこれを自分たちの吉祥と考えた。


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