殿山泰司
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とのやま たいじ
殿山 泰司
『残侠の港』(1953年。東映)スチル写真
本名殿山 泰爾
別名義殿山 泰二
生年月日 (1915-10-17) 1915年10月17日
没年月日 (1989-04-30) 1989年4月30日(73歳没)
出生地 日本兵庫県神戸市
職業俳優エッセイスト
ジャンル映画・テレビドラマ・舞台
活動期間1942年1947年 - 1989年
主な作品
裸の島
人間
愛のコリーダ』(1976年)
楢山節考』(1983年)

 受賞
毎日映画コンクール
男優主演賞
1962年人間

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殿山 泰司(とのやま たいじ、1915年大正4年)10月17日 - 1989年平成元年)4月30日)は、日本俳優エッセイスト

兵庫県神戸市出身。中央区立泰明小学校東京府立第三商業学校中退。終戦後の日本映画界において独特の風貌で名脇役として活躍した。ジャズミステリーをこよなく愛し[1]、趣味を綴った著書も多数残している。また、波乱万丈なその人生は、映画化もされている。
来歴
生い立ち

神戸の生糸商の長男として生まれる。幼名は殿山泰爾(たいじ)である。父親は広島県生口島出身[2][3]。6歳の頃に父親の事業が破綻して両親は別居。父とその愛人(泰司の義母となる)について上京し、東京都中央区銀座で少年時代を過ごす。このとき父と義母が出したおでん屋が、銀座五丁目から移転し今も日本橋で営業をつづける「お多幸本店」である。屋号は義母の名前からとられている。

繁盛店の跡取り息子として育つが、殿山は“義母が、実母から父親を奪った”と認識していたため義母に懐けなかった[1]中央区立泰明小学校卒業後、府立第三商業学校に入学するも素行不良によりほどなくして退学(後述)。1933年(昭和8年)に父が亡くなり、家業を継がねばならなくなりしばらくおでん屋で働くものの、その後店を弟に譲る[4]
役者デビュー

1936年(昭和11年)に家出した殿山は、研究生募集のチラシを見て俳優の道を志し[1]新築地劇団に入団。同期入団者に千秋実多々良純小山源喜がいる。薄田研二につけてもらった「夏目銅一」の芸名で初舞台を踏む[5]1938年(昭和13年)に劇団を一時退団し、同年復帰後は本名と一字違いの殿山泰二に芸名を変える。

1939年(昭和14年)、南旺映画の第一作『空想部落』(千葉泰樹監督)で本格的な映画デビューを果たす。1942年(昭和17年)に京都の興亜映画に入所し、同年、内田吐夢監督作品『鳥居強右衛門』に出演。撮影終了と同時に召集されて出征し、その後は中国戦線を転戦する。
殿山泰司に改名

中国湖北省で終戦を迎えた殿山は復員後、興亜映画に所属していたスタッフや俳優を引き取っていた松竹大船撮影所で自身の所属を確認して俳優活動を再開、殿山泰司と芸名を改めて映画界に復帰する[5]新藤兼人脚本・吉村公三郎監督作品への出演を通じて彼らと交流を深め、1950年(昭和25年)に新藤、吉村が松竹を退社して「近代映画協会」を設立した際には創立メンバーとして参加した。

以後、新藤・吉村の監督作品の常連をつとめた後、その他の名だたる監督からも支持を受けて役者としてのキャリアを積み上げていく。新藤の『裸の島』では島の男の役で乙羽信子と共演(これは一言も喋らない、台詞の無い脚本)、同じく新藤作品の『人間』では漂流する漁船の船長役で、それぞれ主役をつとめた。『裸の島』はモスクワ国際映画祭グランプリを始め数々の国際映画祭で受賞し、『人間』で殿山はNHK映画賞主演男優賞、毎日映画コンクール男優主演賞を受賞した[1]
名脇役、エッセイストとして活躍

その一方、「お呼びがかかればどこへでも」をモットーに「三文役者」を自称して[1]、様々な映画に脇役として出演。巨匠の作品から児童教育映画、娯楽映画、日活ロマンポルノに至るまで名バイプレーヤーとして活躍した。独特な風貌や、巧妙な演技から性格、個性派俳優として黒澤明今村昌平今井正大島渚など様々な監督に重用された。また当時の役者にしては珍しくフリー[6]で活動していたため、五社協定に縛られることなく各社の映画に多く出演することができた。そのため73年の生涯で約300本に上る映画に出演し[1]、テレビにも頻繁に出演したため、その作品は膨大な数に上る。

1966年に「三文役者の無責任放言録」を刊行したのを皮切りに、その後エッセイを多数執筆。コラム連載を持ち、エッセイストとしても饒舌な素地となり、1970年代には「オレが」一人称で毒舌織り交ぜながら独特の口調で語るエッセイや自伝的文章を多数執筆し、トレードマークの禿げ頭、黒いサングラスをかけた殿山のイラストが添えられていた。
晩年とその後

1988年4本の映画に出演が決まった後がんが見つかり既に全身に回っていたが、今村昌平の『黒い雨』と神山征二郎の『千羽づる』の2本は無事に撮影を終えた。1本は出演を断念し、最後の気力を振り絞って残りの1本である堀川弘通監督の「花物語」に臨んだ。同作のロケが終わり帰宅しようとするが、自宅アパートまであと約500mの所で歩けなくなりそのまま入院した[1]

1989年(平成元年)4月30日に肝臓がんで死去した。享年73。墓所は鎌倉市浄光明寺と京都市正法寺

1991年盟友・新藤により「三文役者の死正伝殿山泰司」が出版。

2000年に新藤が殿山の生涯を映画化し、『三文役者』という題名で公開された。殿山を竹中直人が演じた。
人物
庶民役としての魅力・周りからの評価

作品の中で主に演じたのは庶民の役でしかもそのほとんどが脇役だったが、殿山はそれらの役をどこか哀愁漂う男たちとして人間味たっぷりに演じたことも、多くの監督に起用された理由の一つである[1]。各作品で印象的な演技を残し、そのなか大島渚監督の問題作『愛のコリーダ』では局部丸出しで演じたことで知られ、脇役ながら大きなインパクトを与えた[1]がほかのシーンを含めてこの作品は映画の芸術表現と法の合否が裁判所で長く争われた。

映画監督の内藤誠によると「生活感のある庶民を演じられる唯一無二の役者で殿山が出演するだけで作品にリアリティが出た。セリフが一言しかない役でもいつも全力投球なため私を含めどの監督からも愛された」と評している[1]

新藤兼人は殿山を『裸の島』の主演に起用した理由について、「殿山の庶民性を十分に見せるような、力の入った仕事をしてもらうのが願いだった。彼に主演という立場で力を発揮してもらえれば、この作品をさらに生き生きとした物にできる」と語った[1]
私生活

私生活では、復員後に始まった「側近」と呼ぶ女性と正妻の関係は彼が没すまで続き、彼女たちに看取られた後殿山の骨は分骨が行われ[1]、墓所は2箇所に建てられている。離婚再婚がままならずに陥ったその滑稽な経緯について自著「三文役者あなあきい伝」、新藤兼人の『三文役者の死』に詳しい。

神奈川県鎌倉市には正妻(最初の夫人)と子による家族の趣味、料理、陶芸、酒などを前面に押し出した店、居酒屋「との山」がある[7]


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