殿ヶ谷戸庭園
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殿ヶ谷戸庭園
Tonogayato Gardens
次郎弁天池
分類都立庭園名勝
所在地東京都国分寺市南町二丁目16
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分56.3秒 東経139度28分54.6秒 / 北緯35.698972度 東経139.481833度 / 35.698972; 139.481833座標: 北緯35度41分56.3秒 東経139度28分54.6秒 / 北緯35.698972度 東経139.481833度 / 35.698972; 139.481833
面積21,123.59m2[1]
開園昭和54年(1979年4月1日[1]
運営者東京都公園協会
2011?2015年度指定管理者
設備・遊具集会場(紅葉亭)
告示1979年4月1日開園
公式サイト公式ホームページ
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殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)は、東京都国分寺市にある有料の都立庭園である。園内は自然の地形を生かした回遊式庭園となっている。国の名勝に指定されている。竹林紅葉亭
歴史
かつての国分寺

殿ヶ谷戸庭園がある国分寺市武蔵野台地の南端に位置し、多摩川の浸食によって形成された数段の段丘の内の2段丘の上下面に跨っていて、恋ヶ窪光町西町東元町西元町などは2段丘の下面にある[2]国分寺崖線は北から南へ国分寺小金井三鷹調布世田谷までの約20kmに及び、北側は高く武蔵野段丘といい、西側は低く立川段丘といわれている[2]。殿ヶ谷戸庭園はこの国分寺崖線の一画に位置し、湧水や小川によって作られた谷戸が幾つも存在し、その谷戸のひとつである殿ヶ谷戸に面した崖の一部である[2]。殿ヶ谷戸は、谷頭は国分寺駅東側周辺で、谷底は西南に延びて庭園の東側崖下から野川に達していた[2]

昭和22年(1947年)、西恋ヶ窪3丁目のローム層から遺物が発見され、続いて丸山(現・南町2丁目)と東京経済大学付近(南町1丁目)など数カ所から遺跡が発見されている[2]先土器時代の人々は、多摩川や湧水周辺に集団を作り住み着いて、1万年以上の昔からこの地域で人々が居住していたことが判明したのである[2]縄文時代の早・中期の石器土器が、殿ヶ谷戸庭園のある花沢東遺跡(殿ヶ谷戸遺跡)から数多く出土している[2]弥生時代古墳時代の遺跡は、都内の多摩川に沿って数多く発見されているが、国分寺市内では発見されていない[2]。8世紀のものと思われる横穴古墳が、内藤国分寺境内黒鐘(現・西元町)などから発見されている[2]

大化の改新以前は、秩父地方、多摩川、荒川流域などで豪族が居住していて、豪族が支配した小さな国が改新頃に統一され武蔵国が成立されたと考えられている[2]。改新政治により地方制度が整備され、武蔵国の国府府中に置かれ、多摩川を利用した農耕と水運などの適地として、国府の北の武蔵国に国分寺が置かれることになった[2]。鎌倉に幕府が置かれ、武蔵の原も上州路から鎌倉への街道が府中街道と並行して設けられ、恋ヶ窪は宿場町として栄えていた[2]元弘3年(1333年)、新田義貞北条泰家による府中分倍河原の合戦は、寺院を中心に栄えてきた武蔵国分寺の衰退を決定づけたのである[2]。国分寺の焼失と鎌倉幕府の滅亡により、宿場町として栄えた国分寺は次第に農村として形態を変えていった[2]
市街地化と庭園

『国分寺市史』によると明治30年(1897年)後半頃、住宅開発が活発化し、大正期(1912?1926年)には「大衆化」「近代化」の波が大都市部に広がりを見せ、三多摩や国分寺村なども巻き込んでいった[3]。大正7年(1918年)2月24日付けの東京朝日新聞に「南北両郡の地価高騰、地所売買で成金が続出」と記録されている[3]南多摩郡と北多摩郡の地価が、大正5年(1916年)頃から5割も高騰し、八王子吉祥寺周辺では3倍に高騰した[3]。国分寺村では大正期、実業家が別荘地開発のための広い土地を求めて進出し始め、別荘の誘致が村の発展につながると村を挙げて道路などのインフラ整備に取り組んだ[3]。国分寺村に最初に進出した別荘地は、花沢(現・日立中央研究所)に建てた「今村別荘」で、建主は鉄道事業家・今村清之助の次男・今村繁三で、繁三は資産家で今村銀行頭取を務めていた[3]。今村別荘は大正中期頃建てられ、土地5,000坪、建物300坪の規模で、大正12年(1923年)3月には国分寺村に300円を寄付し、院線(後・省線)の電化を吉祥寺から立川まで延長することに尽力した[3]

大正4年(1915年)、三菱合資会社江口定條(後の南満州鉄道副総裁、貴族院議員)が大字国分寺殿ヶ谷戸に別邸を建て、名を「随宜園」といい大正期の典型的な和洋折衷の別荘であった[3]。作庭は赤坂の庭師・仙石荘太郎に依頼、壮太郎は高橋是清邸の庭園や八芳園などを作庭した実績があった[3]。大正6年(1917年)12月4日付けの東京朝日新聞に「国分寺村 絶好の別荘地」の記事がある、国分寺村の別荘地化が進む様子が良く分かる[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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