殷 浩(いん こう、? - 356年)は、東晋の政治家・軍人。「竹馬の友」の故事で知られる。字は深源。本貫は陳郡長平県。父は豫章郡太守殷羨
。従子は東晋の武将の殷仲堪(叔父の殷融の孫)。深い見識と広い度量を持ち合わせ、清明さは遠大であった。
20歳にしてその評判は響き渡り、特に清談においてその名を馳せ、叔父の殷融と共に『老子』や『易経』をよく好んだ。殷浩は舌戦においては殷融を凌いだが、書を著して説を立てる事においては殷融が勝ったという。殷浩はこれにより風雅な弁士から崇拝される所となった。
始め、三府(太尉・司徒・司空)から招聘を受けたが、いずれも辞退して受けなかった。
咸和9年(334年)6月、征西将軍?亮から招かれて記室参軍となり、さらに昇進を重ねて司徒左長史に任じられた。やがて安西?翼からは司馬となるよう要請を受け、詔により侍中・安西軍司にも任じられたが、いずれも病と称して受けず、墓所のある荒山において隠居生活をするようになった。
その後は10年近くに渡って隠居を続けたが、 当時の人はこの行為を管仲や諸葛亮に擬え、次第にその才名は?翼・杜乂と並んでの時代を代表する程のものとなった。ただ、その?翼だけは「こういう輩は高閣に束ねておき(名前だけは有名なのでお飾りの役職を与えておくという意味)、天下の太平を待ってから、然る後にその任について議論すべきであろう」と述べ、あまり評価していなかったともいう。
王濛・謝尚はなおも殷浩に仕官の意思があるかどうかを探ると共に、東晋の興亡について一緒に占おうと考え、彼の住居へ訪問した。だが、殷浩の確然とした避世の志を知り、踵を返した。その帰路において、彼らは互いに「深源(殷浩の字)は起きなかった。蒼生(庶民)とどのようにして向き合えばよいのだ!」と嘆息したという。?翼もまた殷浩に書を送って強く仕官を勧めたが、殷浩は固く辞退して応じなかった。
建元元年(343年)から永和2年(346年)にかけて、朝政を掌握していた?冰兄弟や何充らは相次いで亡くなると、会稽王司馬c(後の簡文帝)が宰相となって政務を司るようになった。
永和2年(346年)2月、衛将軍??は司馬cへ殷浩の事を推挙して登用を勧めると、司馬cもまたこれに同意した。3月、殷浩は招聘を受けて建武将軍・揚州刺史に任じられたが、殷浩はまた上疏して辞退する旨を告げると共に、司馬cにも書簡を送って自らの志を伝えた。だが、司馬cもまたこれに返書を送って自らの思いを告げ、再び仕官するよう要請した。殷浩は幾度も辞退を繰り返したが、3月から7月になったところでようやくその任を受けた。 永和3年(347年)、安西将軍桓温は成漢征伐をという大功を挙げた事により、その声望は大いに振るった。だが、朝廷は彼を制御出来なくなるのを憂慮し、警戒を強めた。殷浩もまた大いに名声を博しており、官民問わず推崇する所であったので、司馬cは彼を側近として朝政に参画させる事で桓温を牽制しようとした。だが、これにより殷浩と桓温の間には亀裂が入った。 この時期、父の殷羨が没したことにより殷浩は職を辞し、喪に服した。司馬cは代わりに蔡謨
桓温との対立
当時、征北長史荀羨・前江州刺史王羲之は共に名声を博していたので、殷浩は荀羨を義興郡太守・呉国内史に、王羲之を護軍将軍に抜擢し、自らの側近とした。王羲之は密かに殷浩・荀羨へ、桓温と協調するよう勧め、内部で対立するべきではないと説いたが、殷浩は従わなかった。
永和5年(349年)6月、後趙皇帝石虎が崩御すると、後継争いにより後趙は分裂し、中原は大混乱に陥った。永和6年(350年)、東晋朝廷はこれを黄河流域や関中奪還の好機であると考え、殷浩を仮節・都督揚豫徐?青五州諸軍事・中軍将軍に任じ、北府軍団の長として北征を委ねた。殷浩はこの命を受け、中原奪還を自らの責務とするようになった。
この時、桓温もまた後趙の混乱を中原奪還の好機と捉え、安陸へ出鎮して諸将に北方を窺わせており、さらに朝廷へ上疏して軍の動員を請うたが、殷浩を始めとした朝臣は桓温の出征に反対していたので、長い間返答しなかった。後に桓温は殷浩らが作戦に反対していることを知り、ひどく憤ったという。ただその一方、殷浩の人となりのついては熟知していたので、大して脅威には感じていなかったという。
12月、蔡謨は3年前に司徒に任じられていたもののその職務に就こうとせず、帝や太后は十数回に渡って出仕するよう促したが、病が重篤である事を理由に応じなかった。殷浩は上表し、責任を取って人事を司る吏部尚書江?
を免官とするよう請うた。司馬cもまた事態を重く見て蔡謨を罪に問う事について議すと、蔡謨はこれを大いに恐れ、子弟を連れて素服で朝堂に到来し、跪いて謝罪した。殷浩は彼を重罪に処そうと考えていたが、徐州刺史荀羨の諫めにより取りやめ、庶人に落とす事とした。永和7年(351年)12月、桓温はいつまでも動かない朝廷の対応に痺れを切らし、再び上奏文を送ると共に、5万の軍を率いて長江を下って武昌に駐留して建康を威圧した。桓温到来の報に朝廷は震え上がり、?虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)を立てて、桓温軍を留めようとした。また、殷浩は辞職して桓温に実権を譲ろうとしたが、吏部尚書王彪之(王彬の子)の説得により踏みとどまった。司馬cは桓温に書を送って国家の方針を説明し、また朝廷より疑惑を抱かれていることを忠告した。これを受けて桓温は軍を返すと共に上疏して、武昌へ軍を動かしたのは趙・魏の地を掃討するための準備であり、(桓温が反乱を目論んでいるという)疑惑についても弁明した。また、北伐が許可されない件について不満を漏らし、朝廷内に蔓延る佞臣(殷浩)の存在を痛烈に批判した。 永和8年(352年)1月、殷浩は許昌・洛陽の攻略を目論んで北伐の敢行を上疏すると、詔により許可を得た。この時、尚書左丞孔厳
北伐行へ
同月、殷浩はまず寿春へ到達した。
これより以前、冉魏の豫州牧張遇、荊州刺史楽弘は廩丘・許昌などの諸城をもって東晋に降伏を願い出ていたが、謝尚は張遇の慰撫に失敗して彼の怒りを買ってしまった。これにより張遇は許昌に拠って反旗を翻すと共に、その配下である上官恩もまた洛陽をもって東晋に対抗し、楽弘は倉垣において督護戴施を攻めた。これにより殷浩は進軍する事が出来なくなった。3月、殷浩は荀羨に命じて准陰を鎮守させ、監青州諸軍事を加えた。その後しばらくして領?州刺史に任じ、下?を鎮守させた。
5月、冉魏は前燕と抗争していたが、本拠地の?を包囲されるに至り、大将軍蒋幹は謝尚に救援を要請した。これを受けて戴施が救援に向かったが、救援に応じる見返りとして伝国璽(伝国璽は元々西晋にあったが、永嘉の乱により前趙の手に落ち、後趙を経て冉魏に渡っていた)を手に入れている。