段葛(だんかずら)とは、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の参道、若宮大路のなかで、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道をいう。終着点には三の鳥居があり、鶴岡八幡宮の境内へと到る。神奈川県指定史跡。若宮大路は一部が国の史跡に指定されており、神奈川県道21号横浜鎌倉線の一部である。なお、段葛は鶴岡八幡宮の境内とされているため[注釈 1]、扱いとしては神社の私道である。 若宮大路の道の中央に、幅9メートル(5間)、高さ45センチメートル(1尺5寸)の一段高くなっている他の道路では見られない特異な構造部分を指し、両側は石を重ねて押さえてある[2]。鎌倉時代に作られたものとみられているが、現在の段葛は中世当初に作られたものではなく、近世になってから幾度も作り直されたものである[2]。 過去は一の鳥居からの参道であったが、横須賀線の建設により、一の鳥居から二の鳥居の間が撤去された[注釈 2]。徳川家綱が1668年(寛文8年)に寄進した各大鳥居[注釈 3]は白い石造だったが、1923年(大正12年)の関東大震災で崩落してしまった。各大鳥居は1936年(昭和11年)に再建された一の鳥居以外、新しい朱塗りの鉄筋コンクリート造りとなっている。なお、八幡宮境内の鶴岡幼稚園隣にある源氏池前、鳩小屋撤去後の空き地には、この時に倒壊した大鳥居の部位(二の鳥居なのか、三の鳥居なのかは不詳)が保存されている。 また、鎌倉幕府が攻め込まれるのを防ぐために、一の鳥居から鶴岡八幡宮に向かうにつれて、道幅が徐々に狭くなるようになっており、遠近法によって実際の距離より長く見えるようになっているが、この造りは改修が度々行われた現在でも踏襲されている。 段葛の方向は正確に南北ではなく、東へ約27度ずれていて、その線は鶴岡八幡宮から北方向へ伸ばすと、頼朝が何回も戦勝祈願・感謝を捧げた江戸・浅草寺へ達する。こうした配慮は後の徳川家康の久能山東照宮から富士山頂への線を北へ伸ばすと、日光東照宮へ達することにも見られる[4][5]。 鎌倉時代は作道と呼ばれていた[6]。源頼朝などの武将が鎌倉に住むにつれて山を削り、少ない平地を増やして屋敷地を造成した。そのために山の保水力が低下し、雨が降るたび若宮大路に土砂や水が流れ込み、道がぬかるんで歩き辛くなったために、道から一段高い道を建設したのが段葛である。低湿地に石を置いて整えたものであることから置道(おきみち)と呼ばれていたこともあり、特定の地位や高貴な人のための通路であったと考えられている[2]。段葛に樹木が植えられたのは明治の中期(明治初期頃の写真には存在しない)[7]からで、1917年(大正6年)の改修工事までは、その種類も桜(ソメイヨシノ)ではなく、梅や松であったとみられている[8]。
構造
沿革1868年の若宮大路。
撤去前の一の鳥居と二の鳥居の間(右手奥が三の鳥居)。
植樹は松並木。土手は低く、段葛に石積みが施されていないのが分かる