段勤
[Wikipedia|▼Menu]

段 勤(だん きん、? - 359年)は、鮮卑段部の人物。段末波の子。
生涯[ソースを編集]

父の段末波は段部大人であった。

338年3月、段部が後趙により滅ぼされると、段勤は後趙に服属し、建義将軍に任じられた。

350年1月、後趙の武徳王李閔(後の冉閔)の専横により国が乱れると、これに反旗を翻す者が相次いだ。この混乱に乗じ、段勤は衆を率いて黎陽に移り、これを拠点とした。この時、趙王を自称して前燕に帰順した[1]

8月、段勤は同じく後趙から自立していた張賀度・劉国・?豚と昌城で合流すると、結託して冉閔のいる?へ侵攻した。冉閔は行台都劉羣王泰・崔通・周成を始めとした歩兵騎兵12万を与え、黄城に駐屯させた。また、冉閔自らも精鋭8万を率いて軍の後詰となった。両軍は蒼亭において戦闘となり、連合軍は大敗を喫し、?豚が討ち取られた。後に段勤は立義将軍に任じられた。

352年3月、段勤は胡人数万を従えて繹幕に割拠すると、趙帝を自称した。4月、前燕の建鋒将軍慕容覇(後の慕容垂[2]らが段勤討伐の兵を挙げ、繹幕へ向かった。慕容覇が繹幕へ進出すると、段勤は弟の段思と共に城を挙げて降伏した。慕容儁は罪を赦し、尚書郎に任じた。

358年10月、常山の大樹が根元から倒れ、根の下より70の璧と73の珪が見つかり、いずれも光色は精奇であり、有異の常玉であった。慕容儁はこれを嶽神の命と捉え、段勤を派遣して、これらを太牢に祀らせた。

359年2月、段勤は前燕の者に殺害された。弟の段思は逃亡した。
参考資料[ソースを編集]

晋書』(列伝第三十三、慕容儁載記)

資治通鑑』(巻第九十八、巻九十九、巻百)

脚注[ソースを編集]^ 晋書段匹?伝による
^ 晋書段匹?伝によると、討伐に向かったのは慕容恪であるという










五胡十六国時代の国家・政権
五胡

匈奴

前趙(攣?部)

夏(鉄弗部)

北涼(盧水胡)

鮮卑
段部

慕容部吐谷渾 | 前燕 | 後燕 | 西燕 | 南燕

拓跋部 | 北魏 | 南涼

西秦(乞伏部)

宇文部


後趙

?
仇池

成漢(巴?)

前秦

後涼


後秦

宕昌国

ケ至


五胡以外

漢族

東晋

前涼

冉魏

西涼

北涼(段氏)

桓楚

後蜀

北燕(馮氏)

高句麗
北燕(高氏)

丁零
?魏


その他の政権
(僭主)
丘沈

陳敏

劉柏根

胡亢

銭?

杜曾

杜?

王如

虚除権渠

司馬保

句渠知

陳安

慕容仁

侯子光

黄韜

段龕

劉顕 (後趙)

劉芒蕩

杜洪

張?

段勤

張平

王午

蘇林

呂護

劉康

范賁

蕭敬文

梁犢

李弘

李高

姚襄

張育

司馬勲

苻洛

劉顕 (独孤部)

鮮于乞(中国語版)

康寧(中国語版)

劉黎(中国語版)

魏掲飛(中国語版)

法長(中国語版)

張超(中国語版)

苻広(中国語版)

張翹(中国語版)

王始(中国語版)

曹龍(中国語版)

司馬順宰(中国語版)

白亜栗斯(中国語版)

劉虎(中国語版)

曹弘(中国語版)

彭利和(中国語版)




更新日時:2019年4月29日(月)07:27
取得日時:2019/07/18 15:41


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:8904 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef