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をお願いします。(2020年5月)殖田 俊吉(うえだ しゅんきち、1890年(明治23年)8月4日 - 1960年(昭和35年)5月23日)とは、日本の大蔵官僚、政治家。行政管理庁長官、法務総裁。 地主・殖田直太郎
来歴・人物
1915年(大正4年)2月、兼大蔵属・理財局勤務となり、以後、広島税務署長、司税官、門司税関監視部長、長崎税関長心得、大阪税関監視部長兼総務課長などを歴任。1922年(大正11年)8月、欧州に出張した。1924年(大正13年)3月、大蔵事務官となり銀行局勤務となる。
1927年(昭和2年)4月、田中義一内閣の内閣総理大臣秘書官兼大蔵事務官となる。1929年(昭和4年)6月、拓務省殖産局長に就任。以後、台湾総督府殖産局長、関東庁財務局長を歴任し、1933年(昭和8年)9月に退官した。1941年(昭和16年)9月から1943年(昭和18年)5月まで藤田組監査役、1944年(昭和19年)2月から1946年(昭和21年)10月まで塩水港製糖会社監査役を務める。
第二次世界大戦末期に近衛文麿の側近として吉田茂らと戦争早期終結の工作に加わるが、東京憲兵隊にヨハンセングループとして検挙された。
戦後、復興金融金庫監事となる。さらに、第2次吉田内閣の法務総裁、行政管理庁長官(兼務)、第3次吉田内閣の法務総裁を歴任した。
1960年(昭和35年)5月23日死去。享年69。 [脚注の使い方] 公職
親族
弟 田辺重三(九州帝国大学教授)
叔父 殖田謙吉(海軍少佐 第一艦隊参謀)
いとこ 木下郁、木下哲[1]
参考文献
秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
『新訂 政治家人名事典 明治?昭和』日外アソシエーツ、2003年。
脚注
^ ⇒「ロマンを追って─元大分市長上田保物語─」中川郁二、大分合同新聞社、2003
先代
吉田茂 法務大臣
第4代:1948年 - 1950年次代
大橋武夫
先代
吉田茂(事務取扱) 行政管理庁長官
第2代:1948年次代
工藤鉄男
表
話
編
歴
法務総裁 (1948年-1950年)
法務総裁
鈴木義男
殖田俊吉
大橋武夫
木村篤太郎
法務大臣
木村篤太郎
犬養健
加藤鐐五郎
小原直
花村四郎
牧野良三
中村梅吉