残留日本兵
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残留日本兵(ざんりゅうにほんへい)とは、第二次世界大戦の終結に伴う現地除隊ののちも日本へ帰国せずに現地に残留した旧日本軍の将兵を指す。
概要

アジア太平洋の各地に駐留した旧日本軍将兵は1945年8月の終戦により現地で武装解除、除隊処分とされ、日本政府の引き上げ船などで日本へ帰国し復員した。しかし、その一方で様々な事情から連合国軍の占領下におかれた日本に戻らず、現地での残留や戦闘の継続を選んだ将兵も多数存在した。
終戦を知らされず、あるいは信じず[1] 現地で潜伏し作戦行動を継続したもの。

第二次世界大戦後、欧米諸国の植民地に戻ったアジアの各地で勃興した独立運動に身を投じたもの。

市街地への空襲原子爆弾による日本本土の惨状を伝え聞き、家族の生存や帰国後の生活を絶望視したり、復員船は撃沈されるというデマを信じたもの[2]

日本で戦犯として裁かれることを恐れたもの[3]

現地語の話者である[4]、あるいは土地勘や地縁があり[5]、復員するよりも現地社会で生きていくことを望み、残留したもの[6]

技師やビジネスマンとしての才覚を買われ、現地政府に招聘を受ける[7]、或いは半強制的に現地に留め置かれる[4] 形で残留したもの。

その他、多くの理由により日本本土への帰国を断念し、現地にて生活基盤を築くことになった。

大阪経済法科大学で教鞭を執る傍ら研究・執筆活動を行っている林英一は、残留日本兵の総数は各国合計で約1万人であったとしている。
中国

中国大陸では、残留日本軍が非軍人の在留日本人とともに多数が国民党軍共産党軍に参加し、約5600人が国共内戦を戦った[8]。山西省では国民党軍に軍人・非軍人合わせ約2600人の日本人が参加し、終戦後も4年間にわたり戦闘員として戦った(中国山西省日本軍残留問題)。また、八路軍支配地域では旧日本陸軍の飛行隊長を始めとする隊員300名余りが教官となってパイロットを養成(東北民主連軍航空学校)、総勢で約3000名の日本人が参加した[9]
蘭印(インドネシア)詳細は「インドネシア独立戦争」を参照

第二次世界大戦終結後、スカルノが独立宣言をしたにも拘らず、旧宗主国オランダが再植民地化を試みイギリスなどの支援を受けてインドネシア独立戦争が勃発したインドネシアでは、日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、旧日本軍将兵が独立軍の将兵の教育や作戦指導をするとともに、自ら戦闘に加わるなどした。独立戦争の終結後、インドネシアでは多くの元日本兵が独立戦争への功績を讃えて叙勲されている。インドネシア残留日本兵は記録の上では総勢で903人とされている[9]

インドネシア残留日本兵が作った互助組織「福祉友の会」は、日本に留学する日系インドネシア人学生に奨学金を与えるなど、日本とインドネシアの架け橋としての役割も果たした。元残留日本兵は、毎年行われるインドネシアの独立式典にも呼ばれているが、死亡したり、高齢で体調が悪化したりなどで参加者は減っていき、2014年の式典には1人も参加できなかった[10]

2014年8月25日、小野盛(インドネシア名:ラフマット)が94歳で死去した。小野は最後の残留日本兵とされていたが(行方不明者を除く)、後述するロシアの田中明男が発見され記録は塗り替えられた。これで所在が確認できるインドネシアの残留日本兵は全員死亡もしくは帰国したとされる[11][12]。小野の葬儀はインドネシア国軍が執り行い、にはインドネシアの国旗が被せられ、カリバタ英雄墓地埋葬された[13]
仏印(ベトナム)詳細は「ベトナム独立戦争」および「ベトナム戦争#士官学校とインドシナ残留日本兵」を参照

フランス植民地支配下に戻ったベトナムでは、700人から800人の日本兵が残留[14] するとともに航空機や戦車をはじめとした兵器が残され、ベトナム独立戦争中の1946年に設立されたクァンガイ陸軍中学などいくつかの軍事学校で旧日本陸軍将校・下士官による軍事教育が行われた。ベトナム独立戦争に参加して戦死した旧日本兵には、烈士墓地に顕彰されているものもいる[15]。日本に帰国した日本兵の一部には後にベトナムから勲章を授与された者もいる。また日越貿易会日本ベトナム友好協会などの団体を設立し両国の友好関係を続ける。

フランス領インドシナの構成国であったラオスやカンボジアでも残留日本兵は存在したが、ベトナムに比べればその数は僅かであるとされている[16]


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