残滓牛乳事件(ざんしぎゅうにゅうじけん、英語: Swill milk scandal)とは、19世紀中葉のアメリカ合衆国において、牛の不衛生な飼育環境や牛乳に不正な物質が混入されていることがニューヨーク・タイムズの新聞報道で判明した事件である。 ウシなどの動物の乳はpH(水素イオン指数)がほぼ中性であり、タンパク質、脂質、糖質などの栄養分に富んでいる。この利点は、人間のみならず微生物にも当てはまり、乳は腐敗しやすい食品の1つとされている[1]。1750年代から1800年代の牛乳や乳製品は、移民が家畜として連れてきた牛によって自家消費分が細々と作られていた[2]。ニューヨーク市における乳業の興りは1806年ごろとされ、牛乳が入れられた桶や缶から量り売りされていた[2]。アメリカ合衆国の乳産業において、生乳に含まれている微生物(バクテリアなど)を加熱殺菌するパスチャライゼーションが商業的規模で導入されたのは1900年代初頭とされている[3]。パスチャライゼーションで処理された牛乳、「パスチャライズド牛乳 (pasteurized milk) 」や食品を冷温で比較的長期間保存するための冷蔵庫がアメリカ国内で普及する以前、牛乳は食中毒による死亡などの危険ととなり合わせの致死的な飲み物であった。そのような牛乳の危険性は加熱殺菌が十分になされていないという事情のほか、牛の飼育環境に由来するものが存在していた。ニューヨーク州の沿岸部では19世紀前半から都市部への人口の流入が進み、1840年代になると、ニューヨーク市の人口は約30万人、ボストン市は約10万人を数えた。こうした人口の増加が牛乳の流通構造の変化を生じさせた。1840年前後のニューヨーク州では、酪農場は市街地から12 - 14マイルに点在し、乳牛の飼育頭数は多くとも40頭前後であり、酪農業者自身または販売を委託された小売業者が馬車による行商を行っていた[4]。1840年代後半には、都市人口の牛乳への需要を満たすためオレンジ郡や隣州のニュージャージーなどの農村部で生産された牛乳が鉄道を通して供給され[5][6]、牛乳生産地の拡大が見られた。1850年前後のニューヨーク市では、酪農業と小売業の分化が進んでいた。酪農業の初期投資は比較的重い一方、牛乳の製造と販売の利益が多かったため、牛乳小売業への新規参入が増加し過当競争が生じた[7]。小売業者の濫立は牛乳の品質の悪化(牛乳の容器にはたいてい蓋は付いていなかった)を招いた[7]。ニューヨーク市などの都市部では主に貧困層向けの廉価な牛乳を蒸留酒業者が所有していた酪農場で生産されていたが、牛の飼育環境や牛乳の品質はきわめて劣悪なものであった。 1853年1月22日、ニューヨーク・タイムズは『ビンの中に死がある (DEATH IN THE JUG.) 』の見出しでニューヨークで消費されている牛乳の実態について報道した。同記事では、社会運動家であり、『ニューヨークおよびその近辺における乳業 (The Milk Trade in New York and its Vicinity.) 』の著者であるジョン・マレイリー
目次
1 前史
2 ニューヨーク・タイムズによる報道
2.1 概要
2.2 汚染の実態
3 影響
3.1 行政の対応
3.2 食品恐慌
4 その後
4.1 品質管理
4.2 食品行政の確立
5 脚注
6 参考文献
6.1 和書
6.2 翻訳書
7 関連項目
前史
ニューヨーク・タイムズによる報道
概要
蒸留酒業者が所有する酪農場で飼育されている牛は、一般的に、「暗い広大な牛舎で飼われていて、蒸留した際に残った穀物の熱い潰れた滓を食べていた」[8]とされる。