この項目では、1965年に公開されたアメリカ映画について説明しています。QP-CRAZYのアルバムについては「トワイライトゾーンビ(死霊の盆踊り)」をご覧ください。
死霊の盆踊り
Orgy of the Dead
映画ポスター
監督A. C. スティーヴン
脚本エド・ウッド
製作A. C. スティーヴン
撮影ロバート・カラミコ
配給 ギャガ
公開 1965年
1968年[1]
1987年9月28日
上映時間92分
製作国 アメリカ合衆国
言語英語
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『死霊の盆踊り』(しりょうのぼんおどり、原題:Orgy of the Dead)は、1965年に公開されたアメリカ映画。オカルト・エロチック・ホラー映画。原題は「死者たちの乱交」を意味し[2]、「死霊」とされる女性が裸踊りをするシーンが劇中ほとんどを占めている。日本では1987年に劇場公開、2019年にリバイバル公開されている[3]。リバイバル公開時の映倫指定はG指定[4]。 ある夜、売れない小説家のボブは、恋人のシャーリーとともに小説のネタ探しをするために墓場へ向かっていた[5]。途中でシャーリーが引き返すよう強く迫り、ボブは仕方なくUターンして戻ることにしたが運転を誤り、2人は車ごと転落してしまう[6]。その頃、墓場では夜の帝王と闇の女王が宴を開いており、死霊となった女たちが踊っていた。様子を物陰から見ていたボブとシャーリーは途中で見つかってしまい、縛り付けられてしばらく踊りを鑑賞させられる[7]。そして2人は闇の女王に襲われそうになるが[8]、その瞬間に朝日が差し込んで死霊たちは骨になり、2人は救急隊によって救出された[9]。
物語
配役
ボブ:ウィリアム・ベイツ
シャーリー/黄金女:パット・バリンジャー(英語版
夜の帝王:クリズウェル
闇の女王:ファウン・シルヴァー
シャーリー役のバリンジャーは黄金女の役も演じており、別のかつらをつけて登場する[10]。この「シャーリー」は脚本のエド・ウッドが女装した際に名乗っていた名前で、ウッドの作品には自己を投影した存在として「シャーリー」と名付けられた人物がよく登場する[11]。 この作品を監督したA・C・スティーブンはブルガリアの出身で、出生時の名はステファン・アポストロフ(Стефан Апостолов)であった[14]。アポストロフは青年期に成立した共産政権下で反政府活動を行った容疑により[注 2]収容所に送られた後、アメリカに移り住んだ。渡米後、アポストロフは映画の仕事を始め、自身の体験に基づく映画『Journey to Freedom』(1957)の制作に参加したが、その後は仕事に行き詰まり、組んで仕事をする相手を求めていた。 このとき『Journey to Freedom』で撮影監督を務めたウィリアム・C・トンプソンがアポストロフに紹介したのがエド・ウッドであった[16]。ウッドは『グレンとグレンダ』(1953)『怪物の花嫁』(1955)『プラン9・フロム・アウタースペース』(1959)といった映画を監督として制作したがいずれも成果は芳しくなく、生活は困窮していた。二人はレストランで引き合わされ、アポストロフの監督、ウッドの脚本で映画を制作することになった。 アポストロフは予算に限りのある中で大映画会社に伍して映画を制作するには、隙間市場である性表現を狙うほかはないと判断した。当時アメリカの映画界は性表現規制が厳しく、1950年代には非合法に流通する映画を除けば、単にストリップショーを記録しただけの「バーレスク映画」や、ヌーディストの生活を取材したという名目で裸体を見せる映画がある程度であった[17]。ラス・メイヤーが監督した1959年の映画『インモラル・ミスター・ティーズ』は流れを変え、主人公が周囲の女性を見て抱く妄想、という形ながらも、物語に登場する女性の裸体を作品に取り入れた。以降、同様の手法で裸体を取り入れた作品が何本も制作されるようになり、「ヌーディー・キューティーズ」(Nudie-cuties)と呼ばれた。 こうした状況の中、ウッドは『ヌーディー・グーリーズ』(Nudie Ghoulies, 『裸の食屍鬼たち』の意)と題する18ページの脚本をアポストロフに提示した[注 3]。
スタッフ
製作:A・C・スティーブン(英語版)[注 1]
監督:A・C・スティーブン
原作:エド・ウッド
脚本:エド・ウッド
音楽:ハイメ・メンドサ=ナヴァ(英語版)[13](クレジットなし)
企画