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第一洞窟から見つかったイザヤ書の第二の写本 (1QIsab)
死海文書(しかいぶんしょ/しかいもんじょ、英語: Dead Sea Scrolls)、あるいは死海写本(しかいしゃほん)は、1947年以降死海の北西(ヨルダン川西岸地区)にあるクムラン洞窟などで発見された972の写本群の総称。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書からなっている。死海文書の発見場所は1947年当時イギリス委任統治領であったが、現在ではヨルダン川西岸地区に属している。「二十世紀最大の考古学的発見」[1]ともいわれる。なお、広義に死海文書という場合、クムランだけでなく20世紀後半の調査によってマサダやエン・ゲディ近くのナハル・ヘベルの洞窟から見つかった文書断片なども含むので、文書数には幅が生じる。
死海文書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んでいて、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教の実情をうかがわせるものでもある。文書は大部分がヘブライ語で書かれており、2割ほどのアラム語文書と、ごくわずかなギリシア語文書およびアラム語の方言であるナバテア語の文書を含んでいる。多くは羊皮紙であるが、一部は砂漠では生産されない牛皮であり[2]、また一部パピルスもある。文書の成立は内容および書体の分析と放射性炭素年代測定、質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間と考えられている[3]。死海文書を記したグループ(以後、クムラン教団と呼ぶ)については、伝統的にエッセネ派と同定する意見が主流であるが、エルサレムのサドカイ派の祭司たちが書いた、あるいは未知のユダヤ教内グループによって書かれたとする意見もある。
死海文書の内容は大きく分けて3つに分類することができる。第1は「ヘブライ語聖書(旧約聖書)正典本文」(全体の4割)、第2は「旧約聖書外典」と「偽典」とよばれる文書群(エノク書、ヨベル書、トビト記、シラ書などでユダヤ教の聖書正典としては受け入れられなかったもの、全体の3割)、第3に「宗団文書」と呼ばれるもので、クムラン教団の規則や儀式書、『戦いの書
(英語版)』(1QM(オランダ語版)、1Q33、4Q285(オランダ語版)、11QSM)と呼ばれる書など(全体の3割)である。1946年の終わりから1947年の初めのいずれかの時期に、ベドウィンのターミレ族の羊飼いムハンマド・エッ・ディーブ(Muhammed edh-Dhib、「狼のムハンマド」の意)とその従兄弟が、ヒルベト・クムランと呼ばれる遺跡(遺跡自体は19世紀から知られていた)の近くの洞窟の中で、古代の巻物の入った壷を発見した。最初の発見に関しては、「子ヤギを追いかけていて、洞窟の中に石を投げ入れたところ、何かが割れる音がしたので入ってみた」などさまざまな逸話が語られるが、どこまでが真実かは、もはやわからない。
ベドウィンたちは、最初に見つけた4つの写本をベツレヘムの靴職人で古物も扱っていた「カンドー」ことハリル・イスカンダル・シャヒーン (Khalil Eskander Shahin) の元に持ち込んだ。自身もシリア正教徒だったカンドーは、古代シリア語の文書かと思い、これをシリア正教会聖マルコ修道院の院長で、後にアメリカで大主教になったマー・サムエル(Mar Samuel)に見せた。サムエルは、4つの写本(『イザヤ書』 (1QIsa)、『ハバクク書註解』、『共同体の規則』、『外典創世記』)を24パレスチナポンド(現在の価値で約100ドル)で買い取った[4]。
同じころ、ヘブライ大学考古学教授エレアザル・スケーニク (Eleazer Sukenik) とビンヤミン・マザール (Benjamin Mazar) も、ベドウィンが発見した写本(続けて発見した3つの写本)をカンドーが入手したことを知り、命の危険をおかして(当時アラブ人地区だった)ベツレヘムに赴き、1947年11月29日にカンドーから『戦いの書』、『感謝の詩篇』と『イザヤ書』断片 (1QIsb) の三つを買い取った。ここで、スケーニクは、あと4つの写本をサムエルが持っていることを知る[5]。
1948年1月、スケーニクとマザールはサムエルと接触し、4つの写本の購入を図ったが話はまとまらなかった。サムエルは、第三者の評価によって写本の真価を知るために、アメリカ・オリエント学研究所 (American Schools of Oriental Research、略称:ASOR) の研究者だったジョン・トレヴァー (John C. Trever) に写本を見せた。トレヴァーは、写本の書体や語法がナッシュ・パピルス(1898年にエジプトで発見された紀元前1世紀のものと思われる十戒を含むモーセ五書の抜書きの断片)のそれら書体や語法と非常によく似ているとサムエルに告げた。1948年2月21日、トレヴァーは、サムエルの持っていた写本(イザヤ書、共同体の規則、ハバクク書註解)を撮影したが、原本はその後のインクの変質によって見にくくなり、トレヴァーの写真のほうが読みやすくなっている[6]。
1948年4月、トレヴァーとスケーニクによって、世界に「死海周辺で古代の写本発見」の第一報がもたらされた。当時知られていた旧約聖書の最古の写本(レニングラード写本)を約1,000年さかのぼる写本の発見は古代における旧約聖書の実情を示すものであり、イエス時代のユダヤ教の実態を知ることで、キリスト教誕生に関する新事実がわかるのではないかという期待が生まれた。
1948年5月に第一次中東戦争が勃発したが、サムエルは、写本を安全のためレバノンのベイルートに移していた。この後、サムエルは、写本をベイルートからアメリカ合衆国に移し、各地の大学や博物館などに買取りを打診してまわった。しかし、そもそも本物かどうかわからないという点と、もし本物だとしたら国宝級のものであり、所有権をめぐって国家間トラブルの招来が予想されることの二点を理由に、各地の施設が購入に二の足を踏んだ。最終的に、サムエルは、1954年6月1日のウォール・ストリート・ジャーナル紙に写本売り出しの広告を出した。そこには、「売り希望。四つの死海文書。少なくとも紀元前200年ごろにさかのぼる聖書テキスト。個人・団体を問わず教育機関や宗教施設に最高の贈り物」と書かれていた。写本は、イスラエル政府の意を受けたマザール教授とスケーニクの息子イガエル・ヤディンが25万USドル(現在の価値で200万ドル以上)で匿名購入した。こうして、イスラエルは、最初の七つの写本を全て入手した。ヤディンは、1967年の第三次中東戦争時には、ベツレヘムのカンドーの自宅から第11洞窟から出た『神殿の巻物』を回収している[7]。イスラエルにある聖書館
最初に出土した7つの写本は、エルサレムのパレスティナ考古学博物館(現名称:ロックフェラー博物館)に入った。同博物館は、当時フランス・アメリカ・イギリスの各国政府が共同で運営していた。1961年、死海文書が出土したヨルダンが、死海文書はヨルダンの財産であるとし、1966年には考古学博物館も国有化した。イスラエルは、1967年の第三次中東戦争の後で考古学博物館にあった死海文書を回収し、イスラエル博物館内に新しく作られた「聖書館」 (Shrine of the Book) に移した。ヨルダン政府による死海文書返還要求は、以後も繰り返されている[8]。
研究の開始とその進展発掘調査中のロラン・ド・ヴォー(左)とハーディング(右)
1947年の写本発見から2年がたっても、研究者たちは、写本の出所である洞窟の発見にすら至っていなかったが、国連休戦監視部隊のベルギー人将校フィリップ・リッペンス (Phillip Lippens) 大尉らが、ベドウィンから情報を得て洞窟(第1洞窟)を発見した(1949年1月28日)。委任統治領時代にイギリスによって設立されたヨルダン考古局 (Jordanian Department of Antiquities) の長官ジェラルド・ランケスター・ハーディング (Gerald Lankester Harding) は、同地域の考古学遺跡を管轄していたため、このニュースを聞いてクムランの洞窟探索を企画し、エルサレム・フランス聖書考古学学院 (Ecole Biblique) の所長で、ヘブライ語聖書の専門家のドミニコ会司祭ロラン・ド・ヴォー(英語版) (Roland De Vaux) を誘った。