死後処刑(英語: Posthumous execution)は、既に死んだ人間の罪を問い、その死体を儀礼的に斬り刻む刑罰。時に刑罰を超えた私的な復讐感情によって行われ、またある視点からは尊ばれている人物についても、後に死後処刑される場合もある。 キリスト教世界では、審判の日に復活するためには、神に向かって体が上昇していけるよう東向きに埋葬されている必要があると考えられている[1][2][3]。したがって、損傷のない遺体を切断し、復活の可能性を奪う死後処刑は刑罰として有効な方法の一つであったと言える[4][5]。
世界各地の執行例
ヨーロッパ・ユーラシア
ローマ教皇フォルモススの遺体は死後にステファヌス6世によって掘り起こされ、897年に死体裁判にかけられた。有罪判決ののちに遺体は指を3本切断され、テヴェレ川に投げ込まれた。
イングランド王ハロルド1世は1040年に死亡したのち、腹違いの兄弟であるハーデクヌーズに墓から掘り起こされ、沼に投げ込まれた[6]。
中世イングランドのシモン・ド・モンフォールは1265年にイーヴシャムの戦いで戦死したが、その遺体はヘンリー3世によって首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された[7]。
イングランドの神学者ジョン・ウィクリフは死後45年たってから異端の罪で墓を暴かれ、火刑に処されて遺体が川に投じられた。
ワラキア公ヴラド・ツェペシュは戦死したのちにオスマン帝国軍によって斬首された。
イングランドで宗教改革を行ったマルチン・ブツァーはメアリー1世の命令で墓を暴かれ、ケンブリッジのマーケット・スクエアで火刑に処された。
Gilles van Ledenberg
李氏朝鮮の頃から剖棺斬屍(ぼうかんざんし、朝鮮語: ????)と呼ばれる刑罰が存在する。これは既に死んだ人間の罪を問い、墓を暴いて屍を斬り刻むというものである[16]。これは死者の名誉を重要視する儒教文化の影響と考えられ、死刑の次に重い刑罰と考えられている[16][17]。現代の北朝鮮においては軍需工場で発覚した問題を発生当時の責任者だった故人を剖棺斬屍に処すことで解決しており[18]、また2020年に韓国の金元雄光復会会長が親日派の改葬(破墓)論を唱えたこともある種の剖棺斬屍であると見る向きもある[19][20]。 一般的に中国では死後に罪が明らかになったとしても、捜査されないことになっていた。そのことが『水滸伝』や『東周列国志』では「已死勿論」と表されている[21][22]。しかし、反逆のような重大な罪であり、かつ罪人が発覚時に死亡している場合は当局は法律に従って遺体に拷問刑を課すことができた。また死刑囚が処刑前に死亡した場合も、罪の重さに応じて死後処刑を課すか否かを決定することができた。 明代の1588年(万暦16年)になると死後処刑は主に父母及び祖父母を殺した者(尊属殺)にのみ適用されるようになる。
2019年6月6日の顕忠日に、国立大田顕忠院の将軍墓域にて、民族問題研究所、平和在郷軍人会など親与党系団体のメンバー数十人が行った。
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