死の棘
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死の棘
訳題The Sting of Death
作者
島尾敏雄
日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出第1章「離脱」 - 『群像1960年4月号
第2章「死の棘」 - 『群像』1960年9月号
第3章「崖のふち」 - 『文學界』1960年12月号
第4章「日は日に」 - 『新潮1961年3月号
第5章「流棄」 - 『小説中央公論1963年4月号
第6章「日々の例」 - 『新潮』1963年5月号
第7章「日のちぢまり」 - 『文學界』1964年2月号
第8章「子と共に」 - 『世界』1964年9月号
第9章「過ぎ越し」 - 『新潮』1965年5月号
第10章「日を繋げて」 - 『新潮』1967年6月号
第11章「引っ越し」 - 『新潮』1972年4月号
第12章「入院まで」 - 『新潮』1976年10月号
刊本情報
刊行『死の棘』
出版元新潮社
出版年月日1977年9月30日
総ページ数347
受賞
芸術選奨(1961年)
読売文学賞(1977年)
日本文学大賞(1978年)
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『死の棘』(しのとげ)は島尾敏雄の代表作。日本文学大賞読売文学賞芸術選奨受賞。夫の不倫を糾弾・尋問し神経が狂ってしまった妻を題材にした私小説で、極限状態で結ばれた夫婦が、断絶の危機に合い、絆を取り戻そうとする様を情感豊かに描く。

1960年昭和35年)から1976年(昭和51年)まで、『群像』、『文学界』、『新潮』などに短編の形で断続的に連載。1977年(昭和52年)に新潮社より全12章の長編小説として刊行された。なお、長編での第1章「離脱」、第2章「死の棘」まで(「家の中」「家の外で」「離脱」「死の棘」「治療」「ねむりなき睡眠」で編成)を収録した1961年(昭和36年)刊の講談社版、 同じく第3章「崖のふち」、第4章「日は日に」までを収録した1963年(昭和38年)刊の角川文庫版も存在する。全12章版は新潮文庫から刊行されている[1]

表題は新約聖書コリントの信徒への手紙一』第15章の第55-58節にある使徒パウロの言葉「『死よ、なんぢの勝は何処にかある。死よ、なんぢの刺は何処にかある』死の刺は罪なり。罪の力は律法なり。(後略)」に由来している[2][3]
評価・研究

1961年に第11回芸術選奨を受賞するなど多くの讃辞を受けた[3]

手塚富雄は、「(事件そのものを)全的に受けとめた作者の精神量の大きさ」に立脚する「非私小説」だと論じた[3]

三島由紀夫は、世俗の実際的解決(妻の発作が酷くなる前に入院させ、いたいけな子供たちを守ること)に背かせるにいたった根本理由がわからないとし、そうした主人公である島尾敏雄という小説家の在り方や「魔的な力」を受け取る「制作の衝動」と、精細に物事を見つめ記述する冷静な目線に注目しつつ、「(主人公は)ファウストのあくなき探究心と、メフィストフェレスの冷酷な客観性とを、一身に具備しようとした存在ではないのか?」とし、「われわれはこれらの世にも怖ろしい作品群から、人間性を救ひ出したらよいのか、それとも芸術を救ひ出したらよいのか? 私小説とはこのやうな絶望的な問ひかけを誘ひ出す厄介な存在であることを、これほど明らかに証明した作品はあるまい」と論じた[4]
「死の棘」日記

文芸誌『新潮』に1999年平成11年)新年号から12月号にかけて1955年(昭和30年)1月1日 - 12月31日分が連載。2002年(平成14年)4月号に1954年(昭和29年)9月30日 - 12月31日分が掲載され、2005年(平成17年)に新潮社より刊行された。

小説『死の棘』全編および病妻記諸編に対応する時期の克明な記録。
映画

死の棘
The Sting of Death
監督
小栗康平


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