歴史
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「歴史」のその他の用法については「歴史 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「来歴」はこの項目へ転送されています。後漢の官僚については「来歴 (後漢)」をご覧ください。
ギリシャアテネパルテノン神殿古代ギリシアの歴史家・ヘロドトス。「歴史の父」とも呼ばれる。

歴史(れきし、(ギリシア語: ιστορ?α: historia、: history)は、何らかの事物が時間的に変遷したありさま[1]、あるいはそれに関する文書記録のことをいう。主に国家文明など人間社会対象とする[2][3]。記述されたことを念頭に置いている。

ヴィルヘルム・ヴィンデルバント科学分類に拠れば、「自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つもの」と定義している[4]。また、現在に至る歴史を「来歴」という[5]
意義

「歴史」とは、少なくとも二つの意味を有している。一つは、現実に存在する「もの」が変遷する様そのものを言い換えて「歴史」と定義するものである。しかしその経緯は保存されることは無く、やがて消える。もう一つの「歴史」の意味は、この消え行く変遷を対象化して記述・記録された結果を指し、「歴史記述」ということができる。
歴史と時間

歴史と時間は概念として密接不可分な関係にあるが、全く同意義であれば別異の概念として存立する必要がないはずである[6]。この歴史における時間の問題について、例えば三木清は歴史的時間を自然的時間や自然科学的時間と区別している[6]。歴史的時間においては歴史的出来事の現在性、一回性、不可逆性があり、特に歴史における「現在」は物理学の理論のように単に四次元時空の時間軸の任意の一点ではなく特権性を持つとしている[6]。三木は歴史的時間には方向性があるとし、「過去」から「未来」への因果論的見方という方向性と、「未来」から「過去」への目的論的見方という二つの方向性を示している[6]
歴史と記憶

フランスの社会学者モーリス・アルヴァックス(1877?1945年)は記憶は個人にだけでなく、それぞれの集団(家族、友人、学校、宗教的集団、国民など)にも存在すると考えた[7]。アルヴァックスはこのような集合的記憶を歴史記述と対立するものと捉え、歴史が関心を持つのが過去であるのに対して、集合的記憶は「現在の集団の需要や利益」に応じて選択的かつ再構成的であるとした[7]

アルヴァックスは集合的記憶は集団の同一性と密接にかかわっており、宗教上の伝説のようにフィクションが混入することもあるのに対し、歴史は歴史家が営々と積みあげた過去の情報の総体で中立的であるとした[7]。しかし、アルヴァックスのように歴史を中立とする見解は、アライダ・アスマンなどから疑問視され「すべての歴史記述は同時に記憶の作業でもあり、意味付与、党派性、アイデンティティの確立という諸条件と避け難く絡まり合っている」と指摘を受けた[7]。アルヴァックスの集合的記憶論は集合的記憶と歴史の関係を排除する立場で提唱されたものだったが、アライダ・アスマンはその集合的記憶論を応用しそれぞれ「機能的記憶」と「蓄積的記憶」に分けて互いに補完するものと再構成している[7]
語源
歴史

日本語の歴史は、司馬遷の『史記』に由来する。前漢武帝時代、太史令であった司馬遷が記述した『太史公書』がのちに「史記」と呼ばれるようになり、「史」が歴史の意味でも使われるようになった。司馬遷は黄帝から武帝までの皇帝の変遷を正統性の概念で記述した。以降、「史」は皇帝の正当性を主張する書物として古代中国の各時代で伝統的に編纂されることとなった。また正統性の概念は周辺アジア地域においても影響を与え、『日本書紀』などが編纂される動機となった。

「歴史」という単語自体は、『三国志』の47巻呉主伝の裴松之の注釈に「雖有餘閨C博覽書傳?史」とあるのが現在確認できる最古の例であり、『南斉書』四十巻武十七王伝に「積代用之爲美,?史不以云非」と登場している。しかしながら、中国では「歴史」という単語は、ほとんど普及せず、書籍の題名に用いられたのは、袁黄が著した『歴史網鑑補』である。『歴史網鑑補』は、司馬光以下の通鑑に類する諸書をあわせた書籍であり、これが日本に移入され、江戸時代の日本で「歴史」という用語が普及し始めた。林鵞峰は弟読耕斎への書簡で「古今を商量し、歴史を可否す」と記し(1660年)、その後、日本では、「歴史」という用語を用いた書籍が登場しはじめる(巨勢彦仙『本朝歴史評註』(1690年)、岡本東陽『歴史小鑒』(1781年)、松崎祐之『歴史徴』(1799年)、川関惟光『本朝歴史要略』(1813年)等、「歴史」を書名に含む書籍は江戸時代に20点出版されている[8]

このような背景のもと、江戸時代末期に西洋語の辞書や翻訳書を作成する時に、historyの訳語として、縁起・記録・史書など様々な訳語とともに、「歴史」も用いられるようになる。早くは堀達之助『英和對譯辞書』(1862年)でhistoryに「歴史、記録」を当て、J.C.Henpburnの『和英語林集成』(1867年)でもrekishiの見出しが登場、フランス語の辞書でも1871年『官許佛語辞典』でhistorieは「歴史、記録」、ドイツ語辞書でも1872年『孛和袖珍字書』でGeschichtsbuchが「歴史本」、Geschichtshkundeが「歴史学」となり、西洋語のhistoryの訳語としての「歴史」が定着し[9]、その後、日本でのhistoryの訳語としての「歴史」は清朝・現代中国にも取り入れられていった。
historia, history

英語の "history" やフランス語の "histoire" はラテン語の historia を中立ちとして、古典ギリシア語で「探求して学んだこと、知り得たこと」を意味する "?στορ?α (historia)" に由来する(現代ギリシア語では ιστορ?α (istoria))。ヘロドトスの著書名にも見える ?στορ?αι (Historiai) は、その複数形

ヘロドトスはリディア王国以降のペルシア地方の発展を中心に、プラタイアの戦いにおいてギリシアペルシア帝国の軍隊を撃破するまでを記述した。それゆえ、「歴史」は主として戦争を記述する資料を指したが、時とともにより幅広い事象を対象とする用語に一般化されていった。
歴史認識「歴史認識」も参照

「歴史記述」についても、全貌を漏れなく記述することは不可能で、執筆者の知見や価値観、または時代的背景、執筆者の力量などの制約が加わり、それらフィルターを通じた事象に偏ってしまい、真実がゆがんでしまう。これをE・H・カーは著書『歴史とは何か』で指摘している[10]陳舜臣は「歴史は勝者によって書かれる」と述べている[11]

歴史認識は形成に時間がかかるため、外交文書などを積極的に情報公開する国は自国に有利な情報を後世に伝えることが可能となり、長い時間で見れば「歴史記録による覇権(アーカイバル・ヘゲモニー)」を得られるという意見もある[12]
歴史記述

人類の歴史記録は、時代と地域によって文明、支配者、宗教、政治経済などの切り口が複合的に組み合わさり、今日の歴史記述が成り立っているといえる。

ただその中には、当時の支配者が自らの政権や文化を正当化するために、事実と異なるあるいは脚色された記述もある。また歴史認識に重要な影響を与える史料が現代まで残されていない場合がある。このため、様々な史料を歴史学科学的に多面的に分析しながら仮説・検証を重ねていく作業が継続的に行われている。
リストとしての歴史記述

歴史の記述は、その当初から包括的に始められたわけではない。記述には必ず文字が用いられるが、最も古くかつ資料も豊富な古代メソポタミア文明の楔形文字が刻まれた粘土板は、や戦利品など収入や配給または役人の給与など、行政上の財務収支を記載した単なるリストであった。これらにはやがて人口調査や地名人名なども加わるようになった。


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