歴史主義建築
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歴史主義建築の例。ギリシア神殿のように列柱の並ぶボザール様式ペンシルベニア駅の駅舎。1911年頃に北東から見た写真

歴史主義建築(れきししゅぎけんちく)は、19世紀から20世紀はじめごろの時期に、西洋の過去の建築様式を復古的に用いて設計された建築のこと。

18世紀の新古典主義建築と20世紀のモダニズム建築に挟まれた時期に現れた、特定の傾向の建築を指す。類似する用語に折衷主義があるが、両者の違いは、歴史主義が過去の建築様式のリヴァイヴァルを本旨としているのに対し、折衷主義は特定の様式にとらわれず、いわば「いいとこ取り」をして建築家の作意により複数の様式を組み合わせて造形することにある。たとえば、ゴシック・リヴァイヴァルの建築はゴシック様式に基づいて設計されていることから「歴史主義」ではあるが、複数の様式を組み合わせてはいないので「折衷主義」ではない。
概要

新古典主義建築では古代ギリシアとローマの建築が理想とされたが、19世紀になると中世のゴシックや近世のルネサンスが再評価され、過去の建築様式のリヴァイヴァル運動が起こった。同じ建築家の作品でも、教会を建てるときはゴシック、公共建築を建てるときはルネサンス、などと用途に合わせて様々な様式を用いるという状況も見られるようになった。こうした手法は20世紀初頭ごろまでは主流であったが、近代建築運動の中で否定されていった。

「歴史主義」という言葉はイギリスの建築史家ニコラス・ペブスナーによるもので、モダニズムの観点から見た19世紀建築に対する蔑称である。モダニズム全盛時代の価値観では歴史主義建築の時代は、過去の様式にとらわれ、前向きな理念を見失い混沌とした百鬼夜行の世界、節操のない折衷主義の時代であり、建築技術的にも見るものが無く、価値が低いものとみなされた。

しかしモダニズムが広まりきったことで逆に希少価値が生まれ、今日に続く都市の美観を形成するうえで大きな役割を果たすようになった。東京駅三菱一号館美術館では、周囲のモダニズム建築の多くが解体の憂き目に遭う中で復元されている。
代表的な作品
イギリス

1748-1777年 
ストローベリ・ヒルホレス・ウォルポール) 中世趣味の作品で、ゴシック・リヴァイヴァルの先駆

1815-1823年 ロイヤル・パビリオンジョン・ナッシュ) イスラム様式

1819-1829年 リージェント・ストリート(ジョン・ナッシュ) ジョージアン様式:ジョージ1世-4世(1714-1830年)当時の古典主義的様式

1836-1860年頃 国会議事堂(バリー、オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン) ゴシック・リヴァイヴァルの代表作

1887-1888年 スコットランドヤードロンドン警視庁初代庁舎)(リチャード・ノーマン・ショウ) クイーン・アン様式:アン女王時代(1707-1714年)当時の様式とされたもの

1908年 ピカデリーホテル(リチャード・ノーマン・ショウ) エドワーディアン・バロック:20世紀始めのエドワード7世時代(1901-1910年)に流行した様式
ショウはウィリアム・モリスの影響から中世趣味になり、クイーン・アン様式を得意とした(ヴィクトリアン・ゴシックとも)。後に大げさなエドワーディアン・バロックに転じた。

1912-1931年 インド総督府(エドウィン・ラッチェンス) インド建築の装飾を採用

フランス

1843-1850年 サント・ジュヌヴィエーブ図書館
 ネオ・ルネサンス

1852-1857年 ルーブル宮殿新館 ネオ・バロック

1861-1874年 オペラ座シャルル・ガルニエ) ネオ・バロック

ドイツ

1838-1841年 
ドレスデン歌劇場(ゼンパー) 

1884-1894年 国会議事堂

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国は「歴史の浅い国」という自覚があっただけに、ある意味でヨーロッパ以上に古典様式を理想と捉える風潮が長く続いた。建国以来、イギリスのジョージアン様式(18世紀-)が公共建築や住宅に好んで用いられ、さらにパリのエコール・デ・ボザールで学んだ建築家が古典主義系の歴史主義建築を造り続けた(アメリカン・ボザール)。マッキム・ミード&ホワイト事務所がボザール流の作品を多く残している。また、ヴィクトリアン・ゴシックの影響を受けた建築家の作品もある。
日本大阪府立中之島図書館赤坂離宮東京駅

明治時代に近代化=西欧化を目標とした際、建築の分野で実際にモデルになったのは同時代の歴史主義建築であった。工部大学校で日本人建築家を養成したお雇い外国人ジョサイア・コンドルはヴィクトリアン・ゴシックの建築家であり、教え子の辰野金吾もロンドンに留学し、イギリスの影響を強く受けた。辰野の作品である東京駅にも、クイーン・アン様式建築(英語版)の影響が色濃い(フリー・クラシックともいわれる)。ドイツフランスに留学した建築家もいたが、総じて明治建築の主流はイギリス系であったといえよう。明治末から大正時代に入る頃には、ヨーロッパ各国の近代建築運動が紹介され、ウィーン分離派ドイツ表現主義の影響なども見られるようになり、歴史主義から離れた多様な表現が生まれてきた。昭和に入る頃の若い建築家達はル・コルビュジエらのモダニズム建築に心酔していったが、歴史主義建築に対する支持も強く、アメリカン・ボザールの影響を受けた大規模な作品が造られ、都市を飾った。また、ヨーロッパ以外の伝統的様式(日本、アジア)を取り入れた作品もここに含めておく。

1884年 同志社大学校舎群 - 彰栄館(1884年ダニエル・クロスビー・グリーン)、礼拝堂(1886年ダニエル・クロスビー・グリーン)、有終館(1887年ダニエル・クロスビー・グリーン)、ハリス理化学館(1890年A.N.ハンセル)、クラーク記念館(1893年、R.ゼール)、啓明館(1920年ヴォーリズ)、アーモスト館(1932年ヴォーリズ

1888年 北海道庁旧本庁舎(北海道庁土木課) アメリカ風ネオバロック様式

1895年 法務省旧本館ヘルマン・エンデ/ヴィルヘルム・ベックマン) ドイツ系のネオバロック様式

1896年 日本銀行(辰野金吾) 新古典主義のイングランド銀行を範とした作品

1896年 岩崎久弥邸(ジョサイア・コンドル) ジャコビアン様式(イギリスにおける初期ルネサンスのリヴァイヴァル)といわれる

1902年 兵庫県公館山口半六) フランス系のルネサンス様式

1904年 大阪府立中之島図書館野口孫市日高胖) ネオ・バロック様式

1904年 京都府庁松室重光) フランス系ルネサンス様式

1904年 旧横浜正金銀行本店本館(現神奈川県立歴史博物館)(妻木頼黄) ドイツバロックの影響が見られるといわれる


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