歩兵第22連隊
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歩兵第22連隊
創設
1884年明治17年)
廃止1945年(昭和20年)
所属政体 日本
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位連隊
兵科歩兵
所在地松山
編成地愛媛県 松山市
通称号/略称山3474
上級単位広島鎮台 - 第5師団 - 第11師団 - 第5師団 - 第11師団 - 第24師団
最終位置沖縄県 糸満
主な戦歴日清 - 日露 - シベリア出兵 - 第一次上海事変 - 日中 - 第二次世界大戦
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歩兵第22連隊は、愛媛県で編成された日本陸軍歩兵連隊である。日露戦争以降『伊予肉弾連隊 』と畏怖された精鋭部隊であった。数々の戦役に出征して武勲を重ね、日本軍屈指の戦果を挙げた。目次

1 年表

2 戦歴

3 沖縄戦での行動記録

3.1 アメリカ軍上陸

3.2 幸地の戦い

3.3 日本軍総反撃

3.4 首里防衛

3.5 アメリカ軍総攻撃

3.6 真栄里 22連隊最後の戦い


4 歴代連隊長

5 編成(昭和20年当時) 

6 歩兵第二十二聯隊歌

7 愛媛県人を主力としたその他の部隊

8 脚注

9 参考文献

10 関連項目

年表

1884年(明治17年)松山にて広島鎮台の所属部隊として第1大隊が発足。

1886年(明治19年)8月17日に軍旗親授。

1888年(明治21年)鎮台を改編し師団が創設され第5師団に所属する。

1894年(明治27年)日清戦争に出兵。元山仁川から上陸し、平壌攻略戦に参加。

1898年(明治31年)第11師団創設にともない、第11師団に所属した。

1904年(明治37年)日露戦争に出兵。旅順攻囲戦奉天会戦に参加。

1905年(明治38年)歩兵第22連隊は再び第5師団に所属。

1919年(大正8年)第5師団に属しシベリア出兵に参加。

1925年(大正14年) 宇垣軍縮により歩兵第62連隊(徳島)が廃止され、第11師団所属に戻った。

1932年(昭和7年) 第一次上海事変に出兵。

1937年(昭和12年)7月に第二次上海事変が勃発し、22連隊は8月23日上海郊外の呉淞に上陸。

1938年(昭和13年)3月に愛媛県に帰還。

1938年(昭和13年)9月には再度満州に派遣され、東安に駐屯した。

1939年(昭和14年)8月、ノモンハン事件に速射砲中隊を派出。

1939年(昭和14年)10月、第11師団の改編にともない、第24師団に編入され、徴募区域も愛媛県から北海道に変更された。

1940年(昭和15年)以降、愛媛県出身の歩兵の初年兵は、丸亀、徳島、高知の各歩兵連隊に入営するようになった。

1944年(昭和19年)8月に満州の東安から沖縄に進出。

1945年(昭和20年)6月、沖縄戦にて、勇戦敢闘するも玉砕した。

1962年(昭和37年)沖縄県摩文仁に、沖縄で戦死した愛媛県人約2000名を慰霊するため『愛媛之塔』が建立される。

現在、松山市堀之内の歩兵第22連隊跡には、歩兵第22連隊旗手桜井忠温の『最も愛情あるものは、最も勇敢なり』の言葉が刻まれている。
戦歴

日清戦争にて初陣を飾り、平壌攻略の一番乗りを果たして武名を轟かせた。日本軍の先鋒を務めて雪中行軍し、多くの凍傷脚気患者を出しつつも清国内まで攻め抜く。22連隊の進撃は、下関条約の交渉を日本優位に導いた。日清戦争では、戦死44名、傷病死172名、自死4名、負傷132名。

日露戦争では、乃木希典大将の下、旅順攻囲戦東鶏冠山北堡塁攻略で活躍する。旅順要塞攻略後は、すでに大半の将兵が負傷していたが、次いで奉天会戦に参加して激戦を展開した。この当時の戦いぶりは、22連隊旗手桜井忠温中尉の戦記『肉弾』に描かれている。以来、22連隊は「伊予の肉弾連隊」と畏怖されるようになった。日露戦争では、戦死653名、負傷3891名、行方不明671名の損害を受けながら日本の勝利に貢献した。

シベリア出兵では、氷点下50度にもなるシベリアで、共産主義革命を叫ぶロシア過激派軍と交戦した。チタ郊外のノーウォザルダミンスコエの戦いでは、22連隊将兵約500名が、過激派軍約3000名を狙撃戦で圧倒して撃退する。日本軍の他部隊では、長引く出兵で士気が低下し、シベリア住民と軋轢を生んだが、22連隊ではそれは見られず、名誉連隊として凱旋した。シベリア出兵では、出兵期間1年7ヶ月。戦死17名、戦傷病死20名、事故死2名。

第1次上海事変では、白川義則大将(愛媛県松山出身)の下、上海在住日本人の保護のため、駆逐艦に分乗して上陸し、十九路軍を急襲して撃ち破り、嘉定城に一番乗りした。上海上陸後1か月以内に快勝。任務完遂後は速やかに停戦して兵を退く、白川大将の水際立つ指揮と麾下部隊は、天皇陛下よりお褒めの御言葉を賜った。第1次上海事変では、戦死8名、負傷病兵42名。

第2次上海事変では、戦艦陸奥で中国大陸に急行した。支那軍が陣を構える上海に敵前上陸し、南京を目指した。混乱した支那軍は同士討ちを繰り返し、焦土作戦を採りながら後退したが、22連隊は中国の民衆を保護しつつ行軍を続けた。22連隊の戦死傷者は報道管制が敷かれたため不詳である。出征期間約8か月。一説に、将兵の4分の1は戦死したとの風聞がある。

太平洋戦争において、22連隊第1大隊は、歩兵第333大隊と改名しメレヨン島の守備に派遣された。メレヨンは、敵潜水艦により補給の途絶した絶海の孤島であったため、将兵の約9割が餓死、病死する惨状であった。

沖縄戦では、卓越した戦術によりアメリカ軍の侵攻を何度も何度も撃退した。真栄里で徹底抗戦を続け、同地にてアメリカ軍沖縄攻略部隊司令官バックナー将軍は、日本軍の攻撃により戦死する。沖縄戦での戦況は、22連隊第1大隊長小城正大尉著『天王山』に詳しい。昭和20年6月17日、米軍は、22連隊本部の洞窟陣地に爆薬を投げ込み、22連隊本部は全員戦死した。翌日、沖縄本島を守備する日本軍の玉砕が発表された。
沖縄戦での行動記録

当初沖縄戦は、米軍を包囲殲滅する決戦思想であったため、22連隊は嘉手納に布陣し、当地で築城と嘉手納飛行場の建設に従事した。築城においては、建設資材の調達がままならず、人力に頼る工法で、危険な難工事であった。


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