歩兵第21連隊
日露戦争での歩兵第21連隊
創設1884年(明治17年)
廃止1945年(昭和20年)
所属政体 日本
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位連隊
兵科歩兵
所在地広島 - 浜田
編成地広島 - 浜田
通称号/略称鯉5174
補充担任浜田連隊区 - 松江連隊区
上級単位広島鎮台 - 第5師団 - 第17師団 - 第5師団
最終上級単位第5師団
最終位置モルッカ諸島 セラム島
主な戦歴日清 - 日露 - 日中 - 第二次世界大戦
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歩兵第21連隊(ほへいだい21れんたい、歩兵第二十一聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
衛戍地は現在の浜田市黒川町一帯に存在し、現存する立哨小屋や門柱がかつての姿を今に伝えている。また、1997年(平成9年)に国の登録有形文化財に登録された「雨覆練兵場」(あめおおいれんぺいじょう)は、浜田市立第一中学校の屋内運動場、および島根県立浜田高等学校の第二体育館として現役で利用されている[1]。目次 歴代の連隊長
1 沿革
2 歴代連隊長
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
沿革
1884年(明治17年)、独立第1と第2大隊を基幹に広島城内にて編成
1886年(明治19年)8月17日、軍旗拝受
1888年(明治21年)5月、第5師団が創設
1894年(明治27年)、日清戦争に従軍
1898年(明治31年)7月24日、浜田(島根県)へ転営[2]
1904年(明治37年)、日露戦争に従軍
1907年(明治40年)、第5師団から第17師団に所属変更
1925年(大正14年)5月1日、第17師団廃止に伴い第5師団に所属変更
1937年(昭和12年)
8月12日、沙河鎮に到着し、万里の長城沿いに作戦する
8月23日、鎮辺城の戦いの後、万里の長城に初めて日章旗を立てる
1938年(昭和13年)
3月、徐州会戦に参加
10月、広東攻略戦に参加
1939年(昭和14年)
2月、華中での作戦に参加
1940年(昭和15年)9月、仏印に進入
1942年(昭和17年)
1月、マレー作戦に参加、同地を占領後は10ヶ月間警備に当たる
12月2日、第3大隊は特設巡洋艦清澄丸に乗船し、護国丸、愛国丸と共にラバウルに向けて昭南を出発[3]。
12月12日、ラバウル到着。しかしマダン島、ウェワク攻略の「ム号作戦」にそのまま転用される[4]ことになり、護国丸に乗り換えて愛国丸と共に16日にラバウルを出発、マダン島へと向かう[5]。航海中、アメリカ陸軍の爆撃機B-17、B-24の爆撃を受け続けた[6][7]。
12月18日、マダン島に上陸、30日に出発
1943年(昭和18年)、第3大隊がラエ・サラモアの戦いのラエ攻防戦に参加
歴代連隊長
(特記ない限り陸軍大佐)代氏名在任期間備考
1友田美喬1886.5.27 -中佐、1887.4.大佐
2武田秀山1893.2.13 - 1895.1.10中佐、1894.11.大佐
3一戸兵衛1895.3.19 - 7.31中佐
4武田秀山1895.8.5 - 1895.12.26
5山中信儀1895.12.26 - 1896.9.25
6竹中安太郎
7長屋尚緝1901.10.1 - 1902.8.30中佐、死去
8小泉策郎1902.9.4 -中佐、1903.11.大佐、1904.9.3戦傷
9稲葉瀧三郎1904.9.8 - 1905.3.1戦死
10大田米丸1905.3.3 -中佐
11佐藤祐次