この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "歩兵第141連隊"
歩兵第141連隊
創設1941年
廃止1945年
所属政体 日本
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位連隊
兵科歩兵
編成地福山
通称号/略称夏9853
補充担任丸亀
上級単位第65旅団
最終位置ニューブリテン島 ラバウル
主な戦歴第二次世界大戦
テンプレートを表示
歩兵第141連隊(ほへいだい141れんたい、歩兵第百四十一聯隊)は、大日本帝国陸軍の歩兵連隊の一つ。太平洋戦争初期のフィリピンの戦いに従軍した後、ニューブリテン島に転進して終戦を迎えた。
沿革
1941年(昭和16年)
8月1日 :『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』により[注釈 1]
広島県福山西郊の西部63部隊福山連隊区補充隊で、広島県の予備役を召集し歩兵第141連隊が新設。
第65独立歩兵団(福山)に編入(歩兵第122連隊(松山)と歩兵第142連隊(松江)と歩兵第141連隊の3コ歩兵連隊編成)。
8月10日: 補充隊と歩兵第41連隊から昭和13年・14年・15年徴兵の現役兵が転属し基幹人員となった[注釈 2]。
8月14日: 編成完結。
9月10日: 初代部隊長の今井武夫大佐と旗手の浮田幸雄少尉が宮城に参拝し、軍旗を親授。
10月8日:第65独立歩兵団は動員下令。工兵隊・通信隊・野戦病院を加えて第65旅団を編成。
旅団は、占領地治安警備の第二戦用部隊の編成であり、輜重は持たず、旧式野砲を歩兵連隊内に持つ、編成装備も次等級の縮小軽装備の将兵7300。
歩兵連隊:通常編成の2/3である、2コ歩兵大隊・1野砲兵中隊・1通信中隊・1連隊砲小隊の乙編成。
歩兵大隊:3コ小銃中隊・1機関銃中隊。
歩兵小隊:通常の3/4の3コ分隊。
機関銃中隊内に:1大隊砲小隊。
野砲兵中隊は38式野砲4門。
※ 兵器も定数に満たなく、他部隊から借りたとの証言もある[注釈 3]。
11月6日 :旅団は、西部軍より第14軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入。
11月8日 :動員完結。
11月12日:先発隊福山屯営所出発。
11月13日:連隊主力は旅団司令部とともに福山を出発。列車にて門司に移動。
11月14日:広島県宇品港より諏訪丸・主基丸にて出航。
11月15日:門司港にて、第14軍隷下に入る。
11月19日:台湾基隆港に上陸。列車にて宜蘭に移駐し訓練。
12月7日 :嘉義市西方の白河陸軍演習廠舎に移駐。
12月8日 :宣戦布告。
12月23日:列車にて高雄港に集結。
12月30日:台湾高雄港から出航(旅団は輸送船14隻に乗船、連隊は昭浦丸・三興丸・はわい丸に分乗)。
1942年(昭和17年)
元旦 :比島リンガエン湾サンファビアン北方テンプラ海岸付近に上陸。
1月2日:ロザレスに到着。
1月3日:タルラックに夜到着2泊。
1月5日:タルラックを出発。
1月7日:ポーラックに到着。
1月8日:デルナビアンに到着。
1月9日:第14軍は第16師団、第65旅団にバターン半島の攻撃を下命[注釈 4](第1次バターン攻略戦[注釈 5][注釈 6])。
歩兵第141連隊は、旅団左翼隊として台湾歩兵歩1連隊(今井一二三大佐)と交代し第7中隊(第2大隊長・服部忠三郎少佐指揮)を前衛にクリースよりナチブ山東麓へ進撃。
旅団は、第16師団の歩兵第9連隊(武智漸大佐・京都)の配属を受けて、半島入り口のナチブ山周辺の米比軍防衛線へ攻撃を開始。
1月11日:歩兵第9連隊が密林のため進撃が遅れたため、歩兵第141連隊は単独でマバタン付近の米第57連隊陣地を攻撃。カラギナン川上流地点で右岸断崖を登坂、ムラウインに進撃、連隊前衛の第2大隊は米第57連隊陣地に突撃、哨戒線を突破。
1月12日:敵の迫撃砲を伴う激烈な逆襲を受け、大隊長・服部少佐が散華(後任:立川鴻一少佐)するなど大損害を受けますがマバタンの敵陣を攻略。
1月24日:第1大隊(戸伏長之少佐)を第一線として部署。総攻撃にてアブカイ、ハシエンダ付近の敵左翼陣地を攻略。戦車を伴う敵の逆襲により損害が増加。
1月26日までに、米比軍を最も強化された防衛線第二線へ後退させたが、ここに攻めかかった第65旅団は兵力の3分の2を失い、幹部も多数が戦死した。
1月28日:野戰重砲兵第1聯隊が進出して来たため、連隊は旅団右翼隊に部署され西方アポアポ、タリサイ両河合流点を渡河しタリサイ河右岸に転進。
1月30日、第1大隊を第一線としてサマット山の敵陣地に攻撃を開始。敵砲撃により連隊戦力は半分以下に低下する大損害を受ける。
だが米比軍のバターン半島陣地は、米比軍がオレンジ計画に基づいて構築していた、ナチブ山周辺の第一線、激戦地となったサマット山を含めバガックからピラーに至る第二線、マリベレス山周辺の第三線と巧妙な陣営配置を控えており、アメリカ軍フィリピン師団による有効な反撃により、第65旅団には死傷者が続出した。
2月8日 :軍司令官の本間雅晴中将は攻撃停止を指示し、日本軍の攻勢は中断に至る。
バターン半島攻略のため、中支から第4師団(大阪)と永野支隊、香港から香港攻略戦を終えた第1砲兵隊がバターン半島へ集結し、航空部隊は飛行第60・第62・第16戦隊が増強された。
2月8日 :大本営は比島攻略の増援として第4師団(北野憲造中将・大阪)を第14軍戦闘序列に編入。