武雄神社
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、佐賀県武雄市にある神社について説明しています。愛知県知多郡武豊町にある神社については「武雄神社 (武豊町)」をご覧ください。

武雄神社

拝殿
所在地佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度11分17.4秒 東経130度01分15.4秒 / 北緯33.188167度 東経130.020944度 / 33.188167; 130.020944座標: 北緯33度11分17.4秒 東経130度01分15.4秒 / 北緯33.188167度 東経130.020944度 / 33.188167; 130.020944
主祭神武内宿禰
創建天平3年(735年
別名武雄大明神
例祭10月23日
主な神事元旦祭(1月1日
歩射祭(2月17日
例祭(10月23日
お火たき祭(12月5日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}武雄神社 (佐賀県)佐賀県の地図を表示武雄神社 (日本)日本の地図を表示
テンプレートを表示
一の鳥居(肥前鳥居)二の鳥居・太鼓橋御神木である武雄の大楠。うろには祠が祀られている

武雄神社(たけおじんじゃ)は、佐賀県武雄市武雄町の御船山の山麓にある神社。樹齢3000年ともいわれる御神木の大楠があることでも知られる。
歴史

『武雄神社本紀』によると、天平3年(735年)に初代神主伴行頼に神託があり、大宰府を通じ朝廷奏上して武内宿禰を主神に以下4神を合祀して創建したとされる。

平安時代での旧社格は、九州地区の地方行政機関である「大宰府」の府社とされ、祭礼に国使が参向するなど、杵島郡鎮守としての役割があった。それらを裏付ける218通にもおよぶ武雄神社文書とよばれる古文書が現存する。

元永年間(1118 - 20年頃)武雄二代領主 後藤資茂が、塚崎城を築城するために、朝廷に奏請して当社を舳嶽東麓(現在地)に遷した。

文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは平氏追討祈願を行い、平家を滅ぼした源頼朝後鳥羽上皇の勅使と名代の御家人を赴かせ、御教書を送り、深く感謝した。この参詣を歓迎し、武雄四代領主の後藤宗明が流鏑馬を奉納し、それ以来、現在も流鏑馬神事が行われている。また、これを機に武雄神社と源氏との関係は密接となり、将軍家の祈祷を行う関東御祈祷所と、御家人の役割が与えられた[1]。これらの状況は武雄神社文書により記されている。
境内

一ノ
鳥居(肥前鳥居):寛永18年(西暦1641年)武雄領主22代鍋島茂和により建立される[2]。武雄市指定重要文化財。
高さは4.7m、柱と柱の間は2.7m、笠木の長さは5.8mあり、左の柱に「専祈 身宮剛建 保八節大來之吉祥 壽域増延 仰一門九族之餘慶 祈願成就而君臣 神主武雄宮内大輔藤原朝臣貞門 時寛永十八年辛巳歳暮春吉日良辰」と刻まれ、右の柱に「大日本鎮西肥前州杵島郡 正一位武雄宮奉造立石鳥居一柱 鍋島左京亮藤原朝臣茂和 大菩薩威震十万 化流四海 先願 風調雨順時臻 萬民康楽 陽倡陰和道行 七福即生」と刻まれている[3]

流鏑馬馬場:一ノ鳥居付近より下ノ宮付近まであり、馬場全長は255メートル(140間)である[4]


下ノ宮:摂末社参照


心宇ノ池:例祭の日に清祓の儀が行われる[5]


二ノ鳥居:寛文12年(西暦1672年)に藤原頼続により建立。肥前鳥居と神明鳥居の折衷型である[6]


夫婦檜:2本のが根元と、樹の中ほどで枝が合着しているため、縁結びの象徴とされている[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef