この項目では、佐賀県武雄市にある神社について説明しています。愛知県知多郡武豊町にある神社については「武雄神社 (武豊町)」をご覧ください。
武雄神社
拝殿
所在地佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度11分17.4秒 東経130度01分15.4秒 / 北緯33.188167度 東経130.020944度 / 33.188167; 130.020944
武雄神社(たけおじんじゃ)は、佐賀県武雄市武雄町の御船山の山麓にある神社。樹齢3000年ともいわれる御神木の大楠があることでも知られる。 『武雄神社本紀』によると、天平3年(735年)に初代神主伴行頼に神託があり、大宰府を通じ朝廷に奏上して武内宿禰を主神に以下4神を合祀して創建したとされる。 平安時代での旧社格は、九州地区の地方行政機関である「大宰府」の府社とされ、祭礼に国使が参向するなど、杵島郡鎮守としての役割があった。それらを裏付ける218通にもおよぶ武雄神社文書とよばれる古文書が現存する。 元永年間(1118 - 20年頃)武雄二代領主 後藤資茂が、塚崎城
歴史
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは平氏追討祈願を行い、平家を滅ぼした源頼朝は後鳥羽上皇の勅使と名代の御家人を赴かせ、御教書を送り、深く感謝した。この参詣を歓迎し、武雄四代領主の後藤宗明が流鏑馬を奉納し、それ以来、現在も流鏑馬神事が行われている。また、これを機に武雄神社と源氏との関係は密接となり、将軍家の祈祷を行う関東御祈祷所と、御家人の役割が与えられた[1]。これらの状況は武雄神社文書により記されている。
境内
一ノ鳥居(肥前鳥居):寛永18年(西暦1641年)武雄領主22代鍋島茂和により建立される[2]。武雄市指定重要文化財。
高さは4.7m、柱と柱の間は2.7m、笠木の長さは5.8mあり、左の柱に「専祈 身宮剛建 保八節大來之吉祥 壽域増延 仰一門九族之餘慶 祈願成就而君臣 神主武雄宮内大輔藤原朝臣貞門 時寛永十八年辛巳歳暮春吉日良辰」と刻まれ、右の柱に「大日本鎮西肥前州杵島郡 正一位武雄宮奉造立石鳥居一柱 鍋島左京亮藤原朝臣茂和 大菩薩威震十万 化流四海 先願 風調雨順時臻 萬民康楽 陽倡陰和道行 七福即生」と刻まれている[3]。
流鏑馬馬場:一ノ鳥居付近より下ノ宮付近まであり、馬場全長は255メートル(140間)である[4]。
下ノ宮:摂末社参照
心宇ノ池:例祭の日に清祓の儀が行われる[5]。
二ノ鳥居:寛文12年(西暦1672年)に藤原頼続により建立。肥前鳥居と神明鳥居の折衷型である[6]。
夫婦檜:2本の檜が根元と、樹の中ほどで枝が合着しているため、縁結びの象徴とされている[7]。