武野紹鴎
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武野 紹?(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年10月29日1555年12月12日))は、戦国時代の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。正しくは紹?だが、一部の日本語環境では表示できないため、本項では「武野紹鴎」と表記する。

幼名は松菊丸。通称は新五郎。名乗は仲材。

子に同じく茶人の武野宗瓦がいる。
来歴

文亀2年(1502年)、大和国吉野郡で生まれる。紹鴎の末裔が所持している『武野家系譜』によれば[1]、紹鴎は若狭武田氏の出身とされる[2][1]。武田仲清の孫[2]で、父の名前は信久[1]。母は豪族中坊氏の娘である。祖父・仲清の戦死後、父・信久は各地を放浪の後、「武田が下野した」という意味合いで武野に改姓した[2]。信久は諸国を放浪した後、三好氏の庇護を受け和泉国舳松村(現・堺市堺区協和町)に定住し、皮屋(かわやの屋号・皮革・武具に関する商い)を営むようになった[1]。父が皮革商(皮多)だったことから「賤民出身」とされる場合もある[3]

大永5年(1525年)、父の元を離れ、京都の室町通四条で暮らし始める。その翌年の9月13日に連歌会に参加したとの記録が、大阪天満宮所蔵の連歌資料にある[4]。30歳になるまで連歌師をしていたとされる(『山上宗二記』)。

27歳の時(1528年)、当時の最高の文化人であった三条西実隆を訪ね、その後毎回のように立派な土産を持参し、古典や和歌についての教えを受けるようになる[1][5][4]。その過程は実隆の日記『実隆公記』に書かれている。

朝廷に献金を行ったこともある[5]。この献金への報いとして因幡守に任ぜられている。

享禄4年(1531年)6月末、山科本願寺のために山科へ向かう。この年6月から、加賀の一向一揆内部で「享禄の錯乱」とよばれる内紛が起こっていた。紹?の父が一向宗徒だったらしく、その関連だったと考えられる[6]。8月下旬には帰京し、24日に実隆を訪問している。

享禄5年(1532年)2月、禅宗である臨済宗大徳寺の古嶽宗亘のもとで出家し、紹?の法名を受ける[7][8]。同年8月、京都の法華一揆により山科本願寺が焼き尽くされ、一向一揆が復讐のために京都に攻め込むという噂が流れた。翌年(天文2年)には法華一揆と一向一揆の戦いが大阪や堺で繰り返され、京都の法華宗徒が一向宗の僧をスパイとして殺害する事件も起こっている。禅宗に出家したのは、一向宗との関連からこのような戦乱に巻き込まれることを予感したためだと考えられる[8]

天文2年(1533年3月26日、故郷の堺へ移る(『実隆公記』)。その翌年4月、自らが主催した連歌会の発句を実隆に依頼している[9]

紹鴎は大徳寺の末寺である南宗寺に参禅。大林宗套より嗣法し、一閑斎と号し、大黒庵主となる[10]

天文11年(1542年)4月3日、奈良の塗師で茶人である松屋久政他三人を茶会に招待し、玉澗水墨画「波図」を床に飾り、唐物名物の松島の茶壺を用いた(『松屋会記』)[11]。『天王寺屋会記』には、天文18年(1549年)2月13日と天文22年(1553年)12月9日に堺の豪商である津田宗達らを茶会に招待し、唐物名物の茄子茶入を使ったとの記録が残っている[12]

晩年は、従五位下因幡守に叙された。


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