武邦彦
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武 邦彦
1984年10月28日、スワンステークス出走時
(騎乗馬:ハッピープログレス
基本情報
国籍 日本
出身地京都府京都市[1]
出生は北海道函館市
生年月日 (1938-10-20) 1938年10月20日
死没 (2016-08-12) 2016年8月12日(77歳没)
騎手情報
所属団体日本中央競馬会
所属厩舎武平三京都 (1957年-1967年)
戸山為夫・京都-栗東 (1967年-1970年)
武田作十郎・栗東 (1970年-1984年)
フリー・栗東 (1984年-引退)
初免許年1957年
免許区分平地障害
騎手引退日1984年
重賞勝利80勝
通算勝利7679戦1163勝
調教師情報
初免許年1985年(1987年開業)
調教師引退日2009年2月28日定年
重賞勝利18勝
G1級勝利3勝
通算勝利4193戦375勝
経歴
所属栗東T.C. (1987年-引退)
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武 邦彦(たけ くにひこ、1938年10月20日 - 2016年8月12日[2])は、日本中央競馬会(JRA)にかつて所属した騎手調教師競馬評論家

騎手時代は1960年代から1980年代にかけて第一線で活躍し、関西所属騎手として初の通算1000勝を記録した。通算7679戦1163勝、うち八大競走8勝を含む重賞80勝。「名人」、「ターフの魔術師」等の異名を取り、関係者やファンの間では「タケクニ」、「邦ちゃん」の愛称で親しまれた[3]

調教師としても1989-1990年度JRA賞最優秀スプリンターバンブーメモリー、2000年度同最優秀3歳 (現2歳) 牡馬メジロベイリーなどを管理した。2009年に70歳定年制により調教師も引退。以後評論家として活動していた。

中央競馬の通算最多勝記録を保持する騎手武豊は三男、元JRA騎手・現調教師の武幸四郎は四男である。義娘(豊の妻)に佐野量子がいる。

※親族と区別するため、文中では「邦彦」と名前で表記する。
経歴

1938年、函館市郊外の園田牧場に生まれる。祖先は薩摩国出身の武家であり、祖父の彦七は薩摩藩士の園田家から武家へ養子に入って、日本近代馬術の祖・函館大経の直弟子として多くの騎手、調教師を育てた馬術家である。父・芳彦は北海道馬主協会の重鎮、園田牧場は大伯父の園田実徳が興し、80頭からのサラブレッドを繋養した大牧場であり、これらと親しみながら幼児期を過ごした。しかしその後、太平洋戦争終結に伴って日本に進駐したGHQ農地解放令により、牧場は接収されている[4]

中学2年生の時、京都競馬場で厩舎を開いていた叔父・平三の勧めで京都に移り、騎手見習いとなった[5]。しかし騎手試験には数度落第し、騎手免許取得は19歳となった1957年のことだった[6]。この間に高校を卒業しており[7]、中央競馬史上数少ない高卒騎手の一人であった。
騎手時代

同年3月騎手としてデビュー。同年デビューした騎手には長期養成課程を修了した増沢末夫森安重勝矢野進等がいる。初年度は8勝、翌年は15勝とすぐに頭角を現すことはなかったが、3年目にハチサカエに騎乗してアラブ大障害 (春) を制し、重賞初勝利を挙げた。この年は29勝を挙げ、以降しばらくは20勝半ばで勝利数が安定する中堅騎手となった。1963年に35勝を挙げ、初めてリーディング一桁台となる9位を記録すると、その後は1971年まで7年連続で全国ランキング10位以内を保った。邦彦自身の回顧によれば、1965年頃に東京競馬場へ出張した際、当時トップジョッキーであった保田隆芳野平祐二の騎乗に触れ、「乗り方がどんどん変わっていった」という[8]。邦彦は自らの長い手足をうまく使ったスマートな騎乗スタイルを身に着け、「関西の野平祐二」とも称されるようになった[3]

この間、重賞競走には毎年勝利する一方で八大競走には長く恵まれず、「競馬界の七不思議」とも言われた[9]。しかし1972年アチーブスター桜花賞に優勝、デビュー16年目にして八大競走を初制覇すると、7月にはロングエース東京優駿 (日本ダービー) に優勝してダービージョッキーとなり、以後は一転して八大競走勝利の常連となった[10]

1973年には、落馬負傷した嶋田功に代わって日本ダービー優勝馬のタケホープに騎乗し、菊花賞に優勝。翌1974年には前年最優秀3歳牡馬に選出されていたキタノカチドキで史上初の単枠指定を受けて皐月賞に優勝し、ロングエースでのダービー優勝から3年で三冠騎手となった。キタノカチドキ自身にも史上3頭目のクラシック三冠馬への期待が掛けられ、日本ダービーでも単枠指定を受けたが、激しくイレ込む同馬に手を焼き、最後の直線では蛇行を繰り返して3着に終わった。三度単枠指定を受けた三冠最終戦・菊花賞では優勝したが、「負けたら返上するつもりで騎手免許を懐に入れて乗っていた[11]」、「辞表を携えて競馬場に来た」(邦彦自身は「そんなアホな」と否定している[8])、「ゴール後に涙を拭っていた」[注 1]といった、重圧を物語るエピソードが伝えられている。

1976年の有馬記念からは、「天馬」と称されたトウショウボーイ主戦騎手を務めた。同競走を勝利したほか、翌1977年の宝塚記念高松宮杯にも優勝、連覇を目指した有馬記念ではライバル関係を築いていたテンポイントに敗れたものの、終始2頭が並んでの競り合いは中央競馬史上屈指の名勝負と称えられた。邦彦はトウショウボーイを騎乗した内の最強馬として名を挙げられている[13]。同年1月29日香港ハッピーバレー競馬場で行われたロイヤル・ホンコン・ジョッキークラブ主催の国際騎手招待競走「インターナショナルインビテーションカップ」[注 2]に参戦[14][注 3]ジョセフ・マーサー&レスター・ピゴット イギリス)、フィリップ・パケ( フランス)、ビル・ハータック&ロン・ターコット アメリカ合衆国)、パット・エデリー アイルランド)、アンソニー・クルーズ 香港)ら各国のチャンピオン騎手と腕を競った[15] [16] [17]


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