武藤章
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この項目では、陸軍軍人について説明しています。建築家については「武藤章 (建築家)」をご覧ください。

武藤 章

生誕1892年12月15日
日本 熊本県
死没 (1948-12-23) 1948年12月23日(56歳没)
日本 東京都
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1913年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
墓所殉国七士廟
靖国神社
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武藤 章(むとう あきら、1892年明治25年)12月15日 - 1948年昭和23年)12月23日)は、日本昭和時代の陸軍軍人。最終階級陸軍中将

日中戦争対米交渉フィリピン戦などに従事。一夕会メンバー。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派山下奉文の部下に転じた。第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり処刑された。岳父は陸軍次官関東軍司令官などを歴任した尾野実信陸軍大将
生涯

熊本県上益城郡白水村 (現・菊陽町)の地主の家に生まれる。

済々黌中学熊本陸軍地方幼年学校を経て、1913年(大正2年)陸軍士官学校(25期)を卒業。富永恭次佐藤幸徳山内正文田中新一山崎保代らが同期。

1913年(大正2年)6月、見習士官として大分の歩兵第七十二連隊附となる。12月、歩兵少尉に昇進[1]

1917年(大正6年)陸軍大学校入校[2]

1920年(大正9年)陸軍大学校(32期)を優等で卒業し恩賜の軍刀を拝受した。冨永信政青木重誠酒井康中村正雄酒井直次西村琢磨橋本欣五郎らが同期。歩兵第七十二連隊に戻る。

1921年(大正10年)陸軍士官学校、戦術学部附となる[3]

1922年(大正11年)3月、当時陸軍次官であった尾野実信中将の長女初子と結婚[3]
教育総監部

1922年(大正11年)教育総監部附に異動。8月大尉に昇進[3]

1923年(大正12年)10月、第一次世界大戦の研究を命じられドイツへ行く[4]

1926年(大正15年)1月、武藤の希望により米国視察。同年4月に帰国。帰国後は教育総監部附となり操典、教範の編纂に従事[5]

1928年(昭和3年)冬、赤痢を患う。3月に退院するが、その後糖尿病を併発。しばらく休暇をとる[6]

1928年(昭和3年)8月、少佐に昇進[6]

1929年(昭和4年)糖尿病がはかばかしくなく、大隊長希望を断念。12月、陸軍大学校専攻学生となり、主にクラウゼヴィッツ孫子の比較研究を行う[7]

1930年(昭和5年)11月、参謀本部第二部欧米課に異動。主にドイツ関係の調査を行う[8]

1931年(昭和6年)8月、参謀本部第一部兵站班に異動。教育総監部で培った操典や教範の編纂技術を用いて兵站綱要の改編に従事するとともに、満州事変に伴う補給の業務も担当[9]

1932年(昭和7年)3月、参謀本部第二部綜合班に異動。8月中佐に昇進[9]

1933年(昭和8年)3月、第二部長永田鉄山より中支・南支方面の視察を命じられる[10]

1933年(昭和8年)11月、国際連盟脱退に関連した情報収集のため参謀総長より欧米視察を命じられ、翌年1月東京に帰る。視察の結果を天皇に報告[11]
歩兵第一連隊

1934年(昭和9年)3月、歩兵第一連隊附に異動。連隊附中佐として教育主任を命じられる[12]
陸軍省

1935年(昭和10年)3月、陸軍省軍事課附に異動。武藤の陸軍省勤務の第一歩となる。当時はまだ軍事課と軍務課が分かれていなかったため、両方の業務を合わせたような仕事をしていた[13]

1935年(昭和10年)8月12日、上司で軍務局長の永田鉄山が殺害される(相沢事件)。

1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件。武藤が以前指導していた歩兵第一連隊の青年将校も参加。武藤は反乱した青年将校の思想を否定していたこと、永田鉄山(統制派)の部下であったことなどから、二次的抹殺者名簿に挙げられていたという[14]

二・二六事件後の廣田弘毅の組閣人事に際しては、軍内部で刷新人事を期待して若手の板垣征四郎を推す動きに対して、武藤は二・二六事件の粛軍人事で引退する予定だった参議官の寺内寿一大将を陸相に担ぎ上げ、また川島義之陸相の代理として広田の組閣本部に乗り込み陸軍の意向を伝えるなど積極的な動きをした[15]。この動きについて武藤は、当時陸軍部内に軍内閣を期待する熱が相当あり、その運動を抑圧するためであったと後に回想している[16]
関東軍参謀第二課長(満洲)

1936年(昭和11年)6月、関東軍参謀第二課長に異動。駐屯地である満州関連の資料整理を行う。8月大佐に昇進。
内蒙工作

1936年(昭和11年)12月内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に従事する[17]

当初は田中隆吉中佐が対応していたが、田中が神経衰弱にかかってしまったため武藤が田中に代わり対応することになったという[17]

武藤たち関東軍が進めていた内蒙工作に対し、石原莞爾が中央の統制に服するよう説得に来た際に、「本気でそう申されるとは驚きました。 私はあなたが満州事変で大活躍されました時分、この席におられる、 今村[ 関東軍参謀]副長といっしょに、 参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動を見ており、 大いに感心したものです。 そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」と 反論。若い参謀たちが口を合わせて哄笑したとのことである[18][19]


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