武藤嘉門
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日本政治家武藤嘉門むとう かもん

生年月日 (1870-10-27) 1870年10月27日
出生地岐阜県山県郡千疋村(現:関市
没年月日 (1963-08-11) 1963年8月11日(92歳没)
出身校東京法学院(現:中央大学)中退[1]
所属政党(憲政会→)
(立憲民政党→)
無所属
親族武藤嘉一(長男)
武藤嘉文(孫)
武藤容治(曾孫)
衆議院議員
選挙区(岐阜県郡部→)
(岐阜3区→)
岐阜1区
当選回数3回
在任期間1918年3月6日 - 1920年2月26日
1924年5月10日 - 1928年1月21日
1930年2月20日 - 1932年1月21日
岐阜県知事
当選回数3回
在任期間1947年4月12日 - 1958年10月27日
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武藤 嘉門(むとう かもん、旧姓・辻[2]1870年10月27日明治3年10月3日[3]) - 1963年昭和38年)8月11日[1])は日本政治家実業家。元岐阜県知事衆議院議員、岐阜県名誉県民[1]。岐阜商工会議所会頭[4]

元衆議院議員の武藤嘉一は長男。衆議院議員を務め外務大臣総務庁長官などを歴任した武藤嘉文は孫にあたる。曾孫は衆議院議員の武藤容治目次

1 来歴

2 人物

3 略歴

4 家族・親族

5 脚注

6 参考文献

来歴

岐阜県山県郡千疋村(現:関市千疋)出身。辻丈助の二男[2][4]。岐阜県岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て、東京法学院(現:中央大学)を中退[1]

その後、稲葉郡会・岐阜県会の議員をつとめる一方、家業の酒造業(『菊川』)を経営するほか、食料営団・電力会社・地方鉄道・地方新聞(岐阜日日新聞、岐阜合同新聞)の会社などを経営して経済界の発展のために数数の業績を残した。1918年の衆議院議員補欠選挙に初当選してから3期衆議院議員を務め、国政でも活動した。

1947年新地方自治制度の施行に伴い、岐阜県知事選挙で官選知事の桃井直美を破り、公選された。

終戦後の混乱した中、高齢にもかかわらず日夜職務に精励したため県民に慕われ、1958年まで岐阜県知事を日本で最初に連続3期務め、岐阜県の発展に力を尽くした。この間知事としての給料を辞退して模範を示し、常に健全な財政を維持した[5]。退任時は88歳であるが、88歳の都道府県知事は歴代最高齢である。

業績面では、特に土木事業において全国に先がけて永久橋の整備に着手し、多大の成果を収めたことや山林事業において林務部を新設して、国土緑化、治山治水を行い、1957年4月には、昭和天皇香淳皇后行幸啓を仰いで全国植樹祭を挙行した。

のちに、長年にわたる地方自治並びに地方産業の振興に尽くした功により藍綬褒章を授与され、岐阜県名誉県民の称号が授与された。
人物

住所は岐阜県稲葉郡鵜沼町(現各務原市[2][4]
略歴

1870年 - 岐阜県山県郡千疋村(現:関市千疋)において、辻丈助の次男として誕生。幼名は貞次郎。

1885年 - 岐阜県岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)に入学。親元を離れ寄宿舎生活をする。

1889年 - 岐阜県岐阜尋常中学校を卒業。


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