武蔵_(戦艦)
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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯13度7分0秒 東経122度32分0秒 / 北緯13.11667度 東経122.53333度 / 13.11667; 122.53333 (Last reported position of the Japanese battleship Musashi in the Sibuyan Sea)

武蔵
1942年8月竣工時の武蔵
基本情報
建造所三菱重工業長崎造船所
運用者 大日本帝国海軍
艦種戦艦
級名大和型戦艦
艦歴
起工1938年3月29日
進水1940年11月1日
就役1942年8月5日
最期1944年10月24日シブヤン海で沈没
北緯13度07分 東経122度32分 / 北緯13.117度 東経122.533度 / 13.117; 122.533
または北緯12度48分 東経122度41.5分 / 北緯12.800度 東経122.6917度 / 12.800; 122.6917
除籍1945年8月31日
要目
基準排水量65,000トン(完成時)
満載排水量72,809トン(完成時)
全長263.0m
水線長256.0m
最大幅38.9m
吃水10.4m
機関ロ号艦本缶12基
艦本式タービン4基4軸
150,000馬力
速力公試成績:27.46ノット (50.86 km/h)
航続距離16ノットで7,200浬
乗員約3,300名
兵装新造時:


46cm(45口径)砲3連装3基9門

15.5cm(60口径)砲3連装4基12門

12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門

25mm3連装機銃12基36門

13mm連装機銃2基4門
最終時:


46cm(45口径)砲3連装3基9門

15.5cm(60口径)砲3連装2基6門

12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門

25mm3連装機銃35基105門

25mm単装機銃25基25門

13mm連装機銃2基4門

12cm28連装噴進砲2基56門

装甲舷側 410mm、甲板 200mm、主砲防盾 600mm
搭載機零式水上偵察機零式観測機他、最大7機
カタパルト2基)
出典: [1]
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戦艦武藏(1944年レイテ沖海戦時)

武蔵(むさし、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:武藏[2])は、大日本帝国海軍大和型戦艦の2番艦[3]。艦名は武蔵国から因んで命名された。この名を持つ大日本帝国海軍の艦船としては3隻目にあたる[4]。大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
沿革・艦歴

1934年(昭和9年)12月、大日本帝国(以下日本)は第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が不調に終わったことを受けてワシントン海軍軍縮条約から脱退し、列強各国が軍艦の建造を自粛していた海軍休日は終わった。1936年(昭和11年)12月26日、上田宗重海軍艦政本部長が三菱重工業最高幹部を招き、B計画における巨大新型戦艦建造について事前準備を依頼した[5]1937年(昭和12年)開催の第七〇回帝国議会で予算が承認され、3月29日に計画名「A140-F6」から第一号艦、第二号艦と仮称された[6](予算詳細は大和を参照)。9月8日、海軍艦政本部から三菱重工業に「A140-F6」が正式発注される[7]。予算見積折衝を経て、1938年(昭和13年)3月29日、第二号艦(武蔵)の建造が始まった[8]三菱重工業長崎造船所建造の戦艦としては、金剛型戦艦霧島伊勢型戦艦日向加賀型戦艦の土佐天城型巡洋戦艦の高雄[9]八八艦隊未完成艦)に続いて5隻目となるが、土佐や高雄の4万トンから大和型6万5千トンへの飛躍には、船台拡張を含めた技術者の研究と努力が必要だった[10]

武蔵は設計段階から司令部施設の充実がはかられ、大和で弱点と指摘された副砲塔周辺の防御力も強化された[11]。武蔵の艤装員だった千早正隆によれば最上型重巡洋艦から転用された副砲の装甲の薄さは特に懸念され、有馬馨艤装員長(初代艦長)と共に副砲の撤去を訴えている[12]。艦政本部の清水技術中将が山本五十六連合艦隊司令長官に副砲の防御力問題について相談すると、山本は「副砲を撤去して蓋をすれば良い」と述べた[13]。これについて牧野茂(大和型戦艦設計陣)は山本と清水の会談は知っていたが内容についてまでは知らず「検討に値する提案なのに惜しい事をした」と千早に語っている[14]。また司令部施設の充実について、千早は「暴論、定見を欠いた」と評している[15]1942年(昭和17年)1月、連合艦隊司令部から拡張要求があった時点で武蔵は大和と同じ内部構造だったが、内装の変更に駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月の竣工遅延が生じた[16]宇垣纏連合艦隊参謀長も「大和に比して、当司令部の意見に従ひ改善せられたる点、相当多し」と記している[17]

姉妹艦の大和や「110号艦(信濃)」同様本艦の建造は極秘とされ、艤装員(建造中の艦乗組員)は長崎造船所を秘匿した「有馬事務所」に勤務するよう命じられた[18]。機密に対する警戒は厳重で、有馬馨艤装員長ですら、腕章を忘れると検問を通過できなかった[19]。外部に対しては、さまざまな方法で武蔵を隠す手段がとられた。船台の周囲には漁具(魚網等)に使う棕櫚(しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、漁業業者が抗議[20]。警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったとされる。また、棕櫚の目隠しが船台に張り巡らされると、付近の住民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」「魔物」と呼んでいたという[21]

また、対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫(長崎市営常盤町倉庫)を建造するなど、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した[22]。長崎住民に対する監視も厳しく行われ、造船所を見つめていると即座に叱責を受けて体罰を受けたり[23]、逮捕されることもあった[24]。造船所を見渡す高台にあったグラバー邸香港上海銀行長崎支店を三菱重工業が買い取るということも行われた[25]

また、機密保持のため、海軍機は1940年3月頃から、陸軍機は1940年4月から長崎市上空の飛行を禁止された[26]

一番艦の大和よりも遅れて起工された武蔵には、大和建造中に判明した不具合を改善して反映させることができた[22]。これらの改善の中には、第一艦橋左右の大型スポンソンなど、のちに大和のほうに追加されたものもある。しかし一方で、ドック内で建造された大和と異なり、船台上で建造された武蔵は、「船台から海面に下ろし進水させる」という余分な工程を抱えていた。重量軽減のため、舷側や主要防御区画の装甲を進水後に取り付けたほどである[27]


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