「武蔵野台」とは異なります。
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出典検索?: "武蔵野台地"
武蔵野台地(むさしのだいち)は、関東平野にある荒川・多摩川・京浜東北線・入間川に挟まれた面積700km2[1]の台地である。その範囲は東京都区部(東部を除く)、多摩地区の大部分(南多摩を除く)、そして所沢市など埼玉県入間地域や志木市など新座地域を含み、川越市が武蔵野台地の北端に位置する。武蔵野台地の地形は古くから研究が進められ、日本の第四紀編年の基準とされてきた。
名称の由来は万葉集や中世文学に度々登場し、国木田独歩の随筆でも知られる地域名“武蔵野”で、地図の上で大きく重なることから名づけられたもの。
成立[ソースを編集]
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出典検索?: "武蔵野台地" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年5月)
関東山地から流れ下った多摩川は、青梅を扇頂とする広大な扇状地を形成し、これが武蔵野台地の基盤となった。扇状地を形成する際、その他にあったほぼ全ての丘陵(狭山丘陵を除く)を削り去り、平坦な地を作った。その後、隆起し台地となるとともに、その上には関東ローム層が数メートルから十数メートルの厚みで堆積した。なお現在の多摩川は武蔵野台地の南縁(したがって多摩丘陵の北縁)を流れ東京湾へ注ぐ。
台地の北東縁は利根川(現在の荒川に近い河道を流れていた)によって大きく削り取られた。
地形[ソースを編集]
段丘と崖線[ソースを編集]
武蔵野台地では2種類の発達した河岸段丘が見られる。ひとつは南側を流れる多摩川によって形成されたものであって、最も低い段丘(低位面)を立川段丘あるいは立川面、それよりも一段高い段丘(高位面)を武蔵野段丘あるいは武蔵野面と呼ぶ。もうひとつは北部に見られるものであって、かつての多摩川の流路の名残りと考えられている。
立川面は立川1面、立川2面、青柳面(立川3面)、不老面(としとらずめん)に区分される[2]。武蔵野面は成増面(武蔵野1面)、赤羽面(武蔵野2面)、中台面(武蔵野3面)、小平面、黒目川面、久米川面、空堀川面に区分される[2][3]。近年の研究では石神井面・仙川面・十条面と言った語句が登場している[4]。
各段丘の縁端は段差数メートル程度のちょっとした崖になっており、武蔵野の方言ではこれを「ハケ」や「ママ」などと呼ぶ[注釈 1]。また、段丘の縁端に沿って延々と続くこうした崖の様子を、学術的には崖線(がいせん)と呼んでいる。武蔵野台地周辺ではいくつかの崖線がよく知られている[注釈 2]。
立川崖線(府中崖線や布田崖線とも呼ばれる)[ソースを編集]立川崖線の崖面に建つ瀧神社(府中市清水が丘)
立川市や府中市、調布市の中心市街地が載っている立川面は立川崖線(たちかわがいせん)[5]によって多摩川の沖積低地と分けられていて、国立市谷保(やほ)から青柳(あおやぎ)にかけて、および昭島市付近や青梅市付近にさらに低位の面を抱えている。それらを青柳面、拝島面、川崎面、千ヶ瀬面、天ヶ瀬面として区別する研究者もいる[6][7][8]。立川崖線は、青梅付近から多摩川に沿う形で立川市内まで続き、JR中央線の多摩川鉄橋の付近から東に向かい、たましんRISURUホール(立川市市民会館)の南を通って、南武線と甲州街道の間をさらに東に向かう。谷保の西で甲州街道の南に入る。ここに谷保天満宮が崖線を利用した形で置かれている。そこからは甲州街道のおよそ500mほど南を東に進み、狛江市元和泉付近まで続いている。立川崖線は府中崖線(ふちゅうがいせん)[5][9]や布田崖線(ふだがいせん)[5][10]とも呼ばれる。
これらは、多摩川(玉川)や東京湾(内海)の海による浸食で出来たものである[11]。
国分寺崖線[ソースを編集]武蔵野公園から見た国分寺崖線。奥の木立がその崖面で、「ハケ」と通称される。
立川面と武蔵野面とは国分寺崖線(こくぶんじがいせん)[12]によって分けられている。国分寺崖線は立川市にある五日市街道の砂川九番交差点付近に始まり[13]、JR中央線を国立駅の東側で横切ったのち、国分寺市・国立市・府中市の三市市境付近から東に進む。国分寺駅付近より野川の北に沿い、小金井市中町からは南東に進みつつ武蔵野公園北端や野川公園を通って三鷹市に入る。ほどなく調布市に入って深大寺付近を通り、つつじヶ丘などの舌状台地を作りながら世田谷区の砧地域、玉川地域南部を通り、大田区の田園調布を経て同区の嶺町付近に至る。