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武蔵平一揆(むさしへいいっき)は、 そもそも平一揆とは平安時代からの在庁官人である武蔵国の秩父氏一族、相模国の中村氏一族、その他常陸国・上野国の平氏などが血縁を軸に集結した関東有数の国人一揆のことを指す。彼らは地縁を活かして各々の地元の地侍も一揆に取り込んだ結果、大兵力を動員することができた。代表的な人物としては、河越直重や足利基氏の学友高坂信重が挙げられ、鎌倉府が上記三国を支配するにあたって重要な役割を果たした。 観応の擾乱において、足利尊氏方につき、その後も鎌倉府初期の支配体制、いわゆる薩?山体制の一翼を担うこととなる。秩父氏の遠縁にあたり懇意だった関東管領の畠山国清指揮下、下記のように尊氏やその息子で初代鎌倉公方である足利基氏のため数々の合戦にその姿を見せた。 武蔵平一揆の乱
南北朝時代の代表的な国人一揆のひとつ。武蔵国・相模国・伊豆国を中心とした国人一揆である平一揆のうち、河越氏当主の河越直重を中心とした豊島氏など武蔵の国の国人一揆を言う。
もしくは武蔵平一揆が武蔵国で関東管領上杉憲顕に対して起こした反乱(武蔵平一揆の乱)。
平一揆
文和元年(1352年) - 武蔵野合戦に参加。
文和2年(1353年) - 入間川御所開設。足利基氏の親衛隊を務める。同年、河越直重が相模国守護職に就任する。
延文4年(1359年) - 畠山国清に従い上洛。摂津国天王寺で仁木義長を破る。
武蔵平一揆の乱
戦争:
年月日:応安元年(1368年)2月25日?6月17日
場所:武蔵国
結果:鎌倉・上杉軍の勝利
交戦勢力
武蔵平一揆鎌倉府
指導者・指揮官
河越直重
高坂信重上杉憲顕
上杉朝房
戦力
河越氏、高坂氏、江戸氏、高山氏、古屋谷氏、新田氏、村山党鎌倉府、上杉氏、相模平一揆、甲斐武田氏、葛山氏
南北朝の内乱
金ヶ崎
河内・和泉
杉本城
青野原
石津
藤島
藤井寺
常陸
四條畷
観応の擾乱
第三次京都
しかし延文3年(1358年)足利尊氏が死去すると、徐々に事態は変化し始める。基氏は成長するにつれ自立を志し、それを掣肘する存在となっていた薩?山体制、なかんずくその中心的存在である畠山国清や平一揆とも距離を置き始めたのである。康安2年(1362年)、ついに畠山国清が足利基氏に討伐され、その際平一揆はかつて自分たちの総大将だった人物との戦いに駆り出されたのである。さらに国清の後任は観応の擾乱で足利直義方につき敗北、信濃国に追放されていた上杉憲顕であった。かつての敵の復権を恐れた上野・越後国守護代の芳賀高名は鎌倉へ向かう憲顕を討とうとするが、基氏の追討を受け武蔵岩殿山・苦林野の合戦に敗れ、主の宇都宮氏綱もろとも失脚した。この戦いにも基氏方として働いた平一揆であったが、復権した憲顕はその勢力削減に動き始め、貞治2年(1363年)河越直重は相模国守護職から解任、高坂氏
も伊豆国守護職の地位を脅かされた。貞治6年(1367年)、鎌倉公方基氏と室町幕府将軍足利義詮が相次いで死去。権力の空白状態が生じた。基氏の後継者氏満はいまだ幼少であり、後見する上杉憲顕が再び平一揆の勢力削減に動く可能性があった。