武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと)は、東京都国分寺市西元町・東元町にある古代寺院跡。武蔵国分尼寺跡を含んで国の史跡に指定されている。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺・国分尼寺の寺院跡にあたる。現寺院については武蔵国分寺を参照。 本史跡は、かつて武蔵国に置かれた国分寺および国分尼寺の跡地である。尼寺区域は調査が終わっており歴史公園として整備されている。一方僧寺区域は整備事業の一環で発掘調査中である。史跡指定範囲は時代が下るごとに広がり、現在は11haにおよんでいる(東山道武蔵路を含まず)。なお、推定される寺域は国分寺跡・国分尼寺跡を合わせて、僧寺金堂を中心に東西1500m、南北1000mの範囲におよぶとみられる。国分寺崖線の南側すぐの位置にあり、かつては東山道武蔵路を挟む形で東側には武蔵国分寺、西側には武蔵国分尼寺が立地していた[1]。現在は、両寺院の間を府中街道(埼玉県道・東京都道17号所沢府中線)とJR武蔵野線が横切っている。 史跡指定地内には、鎌倉時代末期の分倍河原の合戦の兵火で旧武蔵国分寺が焼失した後に、新田義貞の寄進によって再建された武蔵国分寺(真言宗豊山派)も所在している。 国府(武蔵国府跡)から南北の道でつながっている。 旧武蔵国分寺の創建は、8世紀半ばの750年代末から760年代初と推測されている。敷地は東西8町、南北5町半と推測され、諸国の国分寺のなかでも相当に大きい部類に属する(東大寺が最大で東西南北とも8町)。伽藍そのものは巨大と言えるほどの規模ではないが、それでも金堂正面は7間で幅36m強におよんでいる。 旧武蔵国分尼寺は僧寺から東山道武蔵路を挟んで西側に立地していた。伽藍配置ははっきりとは判っていないが、これまでに中門跡、金堂跡、尼坊跡、尼坊付属施設跡、築地塀跡が検出されている。現在判明している限りでは、築地塀に囲まれた伽藍中枢部は中門、金堂、尼坊が一直線に並ぶ形であり、金堂と尼坊の間の空間、かつて宅地開発で破壊された辺りに講堂が存在したのではないかと推測されている。鐘楼、経蔵、南大門などの位置もまだ判っていない。尼坊は5坊を備えており、その規模から合計で10名程度の尼僧が起居していたと考えられている。 伽藍中枢部の背後には小高い丘(国分寺崖線)があり、かつてはこの丘にも国分尼寺の関連施設が存在したとの口碑があったが、近年の発掘調査でこの丘から出たのは中世の寺院跡(伝祥応寺跡)であり、国分尼寺の施設が存在したとしてもこの寺院の建設時に破壊されたのではないかと考えられている。なお、この伝祥応寺跡の丘には切通しがあり、鎌倉街道上つ道跡との口碑が存在している。 古代の国分尼寺の正確な跡地は長い間、不明であった。江戸期にはこの地域一帯から古代の瓦片が出土することが知られており、現在は国分尼寺が存在したことが明らかになっている一帯(当時は黒鐘谷戸と呼ばれた)を、国分尼寺の跡地に比定する絵図も1823年(文政6年)の『武蔵名勝図会』が存在している。 明治時代には根岸武香、重田定一らによる現地踏査が実施され、国分寺跡については場所が確定されている。国分尼寺の場所については住田正一が、黒鐘地区ではなく京所(きょうず)地区ではないかとの説を出したが、これは直後に山中共古による反論が提出された。なお、国分尼寺の京所立地説はその後も別の論者によって提起されているが、現在では黒鐘の地に所在していたことが判明している。 1922年(大正11年)、内務省による史跡の指定を受けて東京府(現:東京都)がこの地を調査し、礎石の配列から伽藍配置の推定を実施している。
概要
史跡指定範囲
1922年(大正11年)10月、七重塔・金堂・講堂・北院・西院等の跡地を国の史跡に指定。
1976年(昭和51年)、東僧房の跡地を追加指定。
1979年(昭和54年)、追加の発掘調査によって国分尼寺跡であることが判明した西院の跡地の一部を追加指定。
2003年(平成15年)、史跡公園の尼寺部分(国分寺市立歴史公園武蔵国分尼寺跡)の整備を完了。
2004年(平成16年)、府中市内で確認された武蔵国分寺の参道口を追加指定。
2010年(平成22年)、東山道武蔵路跡を国の史跡に追加指定。指定名称は「武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡」。
武蔵国分寺跡金堂跡
金堂
間口7間、奥行4間。
講堂
創建当初の間口5間、奥行4間を、後に金堂と同じ規模に改築した。
中門
間口3間、奥行2間。八脚門。
七重塔
塔跡1は3間四方。武蔵国分寺の七重塔は『続日本後紀』によると835年(承和2年)に落雷によって焼失したとされる。その後、845年(承和12年)に男衾郡の大領であった壬生吉志福正(みぶのきしふくまさ)が私費による再建を申し出て許可されている[2]。問題はこの時の再建の位置である。従来、七重塔跡は1箇所と考えられていたが、2004年(平成16年)に地中のレーダー調査を実施したところ、従来知られていた塔の跡から西に55mの位置に仏塔跡と考えられる遺構が発見され、現在発掘調査が進んでいる。発掘担当の研究者グループは従来の塔跡を「塔跡1」、新しく見つかった塔跡を「塔跡2」と仮称して研究を行っているが、塔跡1からは創建時のものと思われる瓦が検出され、塔跡2からはより新しい時期に焼かれたと思われる瓦が検出されているので、年代的には塔跡2の方が新しいと推測されている。しかし再建時の七重塔が塔跡2の位置に存在したのか、それとも再建七重塔も塔跡1に建てられたのかを確定出来る史料は見つかっていない。また塔跡2に確認される土台のうえに塔が実際に完成したかどうかも検証されていない。
創建時の塔跡
2004年(平成16年)に発見された第2の塔基壇(塔跡2)
軒瓦
東京国立博物館展示。
武蔵国分尼寺跡金堂跡
尼坊跡
研究史武蔵国分寺参道口