武蔵中学校・高等学校
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東京都立武蔵高等学校・附属中学校」とは異なります。

武蔵高等学校中学校

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度44分9.5秒 東経139度40分3.2秒 / 北緯35.735972度 東経139.667556度 / 35.735972; 139.667556座標: 北緯35度44分9.5秒 東経139度40分3.2秒 / 北緯35.735972度 東経139.667556度 / 35.735972; 139.667556
過去の名称武蔵高等学校 (旧制)
国公私立の別私立学校
設置者学校法人根津育英会武蔵学園
設立年月日1922年
創立記念日4月17日
創立者根津嘉一郎
共学・別学男子校
中高一貫教育完全一貫制
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
学期3学期制
学校コードD113312000041 (高等学校)
C113312000025 (中学校)
高校コード13705H
所在地176-8535
東京都練馬区豊玉上一丁目26番1号
外部リンク公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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武蔵高等学校中学校(むさしこうとうがっこうちゅうがっこう)[注 1]は、東京都練馬区豊玉上一丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校高等学校

高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校である[注 2]
概観

根津育英会武蔵学園が設置した旧制武蔵高等学校を前身とする私立中高一貫制男子校。自由で高度な学問を追究する校風で、政界・財界・官界・学界に多くの卒業生を送り出している。開成・麻布とともに東京私立男子中学の御三家と称される。
沿革「武蔵高等学校 (旧制)」および「学校法人根津育英会武蔵学園#沿革」も参照根津嘉一郎

1922年大正11年)、第二次高等学校令に基づき七年制の旧制高等学校「武蔵高等学校」として創立されたのが始まり。創立者は根津財閥初代総帥の根津嘉一郎で、賛同した宮島清次郎正田貞一郎らは理事となった。初代校長には一木喜徳郎、さらに評議員として北条時敬平田東助岡田良平山川健次郎などを教育界から迎えた。官立の東京高校と並んで日本最初の七年制高校であり、日本で最初の私立旧制高校[1]でもあった。後に七年制高校としては府立高等学校も設立され、七年制高校は、当時の府立一中 - 一高 - 東大ラインに代わりうる新たなエリートラインとして台頭しつつある存在でもあったが、太平洋戦争に突入し人気が急落、道半ばとなってしまった。そのため、七年制高校の評価は定まっていない[2]1948年昭和23年)に学校教育法に基づき新制高校「武蔵高等学校」が発足、1949年(昭和24年)に新制中学「武蔵中学校」が発足した。中学校の定員は3クラス144名、高校の定員は4クラス180名(36名を外部から募集)であったが、2000年平成12年)には高校からの募集を停止し、完全中高一貫校となり現在に至る。2015年現在、募集定員は4クラス160名となっている。

旧制武蔵高校は、当初は山本良吉教頭の主導の下、英国のパブリックスクールを模範とし、一学年の定員80人で純粋培養・少数精鋭の知的スパルタ教育を掲げ、当時流行していた野球を禁じ、猛勉強を推奨した。それゆえ東京帝国大学合格者数では及ばないまでも進学率で一高、東京高校等と首位の座を争ったこともあった。しかし、厳格な成績評価による留年、スパルタ教育から離脱する生徒の退学が相次ぎ、当初の入学者数が卒業時には半数以下の38人になる年もあった[2]

元々は「東京高等学校」という名称になる予定だったが、官立で東京高等学校を設立することが決定され、名称を譲渡して欲しいとの申し入れを受け、東京府の旧国名から「武蔵」と命名された。この名称は令制国の一つ武蔵国(むさしのくに)の地名および、「?武(しゅうぶ・武を収める)崇文」(武をおさめ文を崇ぶ)という平和主義を託した創立時の人々の思いが反映された校名である。また創立関係史料によると、武蔵国は古来強き人が出たところで、雄々しき感じが起こると記されている。
教育目標

三理想という、事実上の校訓ないし校是があり、その内容は、
東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物

世界に雄飛するにたえる人物

自ら調べ自ら考える力ある人物

である。これは、開校初年度の入学式で一木喜徳郎が述べたものについて、1929年に表現上の変更をしたものである。実質的には山本良吉の創案と思われ、彼が1920年から1年間行った欧米視察旅行の反省を踏まえたものであった[3]。山本は1937年の創立15周年座談会で三理想の第1項、第2項について次のように述べている。あれは私の洋行の結果ですが、将来世界の文明が二つ現れるだらうと云ふのが私の考へであつた。一つは東洋文明と西洋文明が東の方を廻つて、日本で東西文明が新しい実を結ぶだらう。今一つは東洋文化が太平洋を渡つて、アメリカで以て違つた実を結ぶだらうと考へて帰つて来たものです。その考へが第一節に入つて居るのです。殊にその頃は日本文化なんて云ふ考へは、不思議な話だけれども社会全体に於て今と較べると余程薄かつたものです。矢張りまだ文明と云へば西洋の文明と云ふやうな考へが、日本には満ちて居たものです。これをどうしても壊さなくちやいかんと云ふ頭があつたものです。それで東西文化と言つたのですけれども実は西は付たりで、東の方を拡げなければならぬと云ふことがあつたのです。それから世界に雄飛する人間を作ると云ふ意味は、日本の文化、東洋の文化を世界にもつと拡げなくてはいかん。さう云ふ人間を作る必要があると云ふ意味です[4]

また、第3項は「従来の暗記中心の『注入主義』的な教育に対し、『自分の頭で考える』ことをすすめるもの」[5]であり、「教授とは人生に必要な一切の知識を与えることではなく、『よく自ら考へ、自ら判断し、最も適当の方法を取って行く』ための力を養うことが肝要」[5][6]との山本の考えを表しているという。
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都営地下鉄大江戸線新江古田駅徒歩7分


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