武者小路実篤
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武者小路 実篤

誕生1885年5月12日
日本 東京府東京市麹町区
(現・東京都千代田区
死没 (1976-04-09) 1976年4月9日(90歳没)
日本 東京都狛江市
墓地中央霊園(東京都八王子市)
職業小説家詩人劇作家画家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴

学習院高等科卒業
東京帝国大学社会学中退
ジャンル小説戯曲
主題理想主義
文学活動白樺派
代表作『お目出たき人』(1911年)
『その妹』(1915年、戯曲)
『幸福者』(1919年)
友情』(1919年)
人間万歳』(1922年、戯曲)
愛慾』(1926年、戯曲)
愛と死』(1939年)
真理先生』(1951年)
主な受賞歴文化勲章(1951年)
従三位(1976年、没時叙位)
親族勘解由小路資生(祖父)
武者小路実世(父)
武者小路公共(兄)
武者小路実光(甥)
武者小路公秀(甥)
武者小路穣(娘婿)
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武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:武者小路 實篤、1885年明治18年〉5月12日 - 1976年昭和51年〉4月9日)は、日本小説家詩人劇作家画家貴族院勅選議員華族の出で、トルストイに傾倒し、『白樺』創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。名誉都民。贈従三位(没時叙位)。

姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した[1]。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。
来歴

東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家武者小路実世(さねよ)子爵勘解由小路家(かでのこうじけ)出身の秋子(なるこ)夫妻の第8子として生まれた。上の5人は夭折しており、姉の伊嘉子、兄の公共と育った。2歳の時に父が結核で死去。

1891年(明治24年)、学習院初等科に入学。得意科目は朗読と数学で、体操と作文が苦手だった。同中等学科6年の時、留年していた2歳年上の志賀直哉と親しくなる。同高等学科時代は、トルストイに傾倒、聖書仏典なども読んでいた。日本の作家では夏目漱石を愛読するようになる。1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らとつくった「十四日会」で創作活動をする。同年、東大を中退。翌年には処女作品集『荒野』を自費出版した。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれ、実篤は白樺派の思想的な支柱となる。「白樺」創刊号に「『それから』に就いて」を発表し、漱石から好意的な手紙を得た。そこでは「夏目漱石氏は真の意味に於ては自分の先生のやうな方である、さうして今の日本の文壇に於て最も大なる人として私かに自分は尊敬してゐる」と述べており、以後漱石の依頼で「朝日文芸欄」に執筆するなど、親密な交流を続けた。文学上の師を持たない主義であったため、いわゆる漱石門下とは区別されることが多いが、事実上の弟子とする見解もある[2]1913年(大正2年)、竹尾房子と結婚。1916年大正5年)には、柳宗悦志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。

理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に、村落共同体「新しき村」を建設した。実篤は農作業をしながら文筆活動を続け、大阪毎日新聞に『友情』を連載。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに、村落共同体「新しき村」を建設した。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。

この両村は今日でも現存する[3]。同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。実際に実篤が村民だった頃の活動は離村後の彼の執筆に多大な影響を及ぼしたといわれており、また同村にとっても実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで言わば持ちつ持たれつの関係にあると見ることもできる。

1922年(大正11年)、房子と離婚し、飯河(いごう)安子と再婚。翌年の関東大震災で生家が焼失。『白樺』も終刊となった。この頃からスケッチや淡彩画を描くようになる。また油絵も描き、1929年昭和4年)には東京・日本橋丸善で個展も開いた。執筆依頼がほとんどない「失業時代」で、トルストイ二宮尊徳井原西鶴大石良雄一休釈迦などの伝記小説を多く執筆した。

1936年(昭和11年)、4月27日からヨーロッパ旅行に出発。12月12日帰国。旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく[4]1937年(昭和12年)、帝国芸術院に新設された文芸部門の会員に選出される。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、日本文学報国会劇文学部会長を務めるなどの戦争協力を行った[5]


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