武者小路 実世(むしゃのこうじ さねよ、1852年1月12日(嘉永4年12月21日) - 1887年(明治20年)10月27日)は、明治時代前半の日本の裁判官。正五位子爵。大日本帝国憲法の設置に関わった。
来歴の次男として生まれた。童名は多嘉丸。のち22歳年上の兄・公香
翌年1871年(明治4年)11月、岩倉使節団の留学生としてドイツに2年半滞在し、1874年(明治7年)7月に帰朝。1875年(明治8年)には萬里小路道房とともに、大久保利和、藤波言忠らの東京青森間鉄道計画を支持して華族票を集め、次いで日本鉄道会社の発起人の一人となった[2]。
1876年(明治9年)、当主だった兄の公香が死没し、公香は男子が夭折していたため、26歳で武者小路家の当主となる。
1879年(明治12年)、学習院の顧問グイド・フルベッキとともに法学者ヨハン・カスパール・ブルンチュリ(英語版)の論文を邦訳し『国会議員選挙論』として刊行。1881年、獨逸学協会の会員となる。同年10月21日に内閣が更迭され参事院(内閣法制局の前身)が置かれたが[3]、ここで大日本帝国憲法発布の準備に関わったという。
1884年(明治17年)7月に子爵を叙爵。1886年(明治19年)、麹町の自宅を日本赤十字社の事務所として提供した[4]。
1887年(明治20年)10月27日、37歳で結核により死去[5][6]。 万国国際法学会の発起人であるスイス法学者ブルンチュリの1876年の『Politik als Wissenschaft』(科学としての政治)は、約600頁10章の論文であるが[7]、グイド・フルベッキの口訳を実世が筆記した『国会議員選挙論』はこれを和文40頁に「輯め」たものであるとされている。以下のとおり人格攻撃的な内容も含まれているが、原文の趣旨とは逆方向の結論になっていた。 世界一般ノ常識ニ依レハ女子ノ意志ハ多ク僧徒ノ誘導ニ因テ決スル者ナリ故ニ若シ女子ニシテ選挙権ヲ有スルハ假令其父ト夫トニ背クモ寧ロ僧徒ノ指揮ニ随テ之ガ選挙ヲ為スノ弊ヲ生シ遂ニ邦国ノ大害ヲ醸ニ至ラン。今日猶ホ羅馬加特力教ヲ奉ズル国ニ於テハ女子ノ僧徒ニ眩惑セラレテ偏ニ寺院ノ為メニ其方向ヲ誤リ遂ニ国ノ独立ヲ犠牲トスルニ至ル者往々コレアリ況ヤ選挙ノ事ヨリシテ男女両性ノ間ニ不和ヲ生ズル?アラハ一家相軋リテ遂ニ其不和ヲ全国ニ波及セシメル?アルニ至ラン豈恐懼セサルヘケンヤ若シ又一家ノ主ニシテ多ク選挙権ヲ有スルヲ以テ国家ニ益アリトナサハ其一家ノ女子ニ之ヲ与エスシテ寧ロ其主タル者ニ其選挙権加與シテ可ナリ(現代語訳)世界一般の常識によれば、女子の意思は多く僧侶の誘導によって決するものである。したがって、もし女子が選挙権を有するときには、およそその父と夫に背き、むしろ僧侶の指揮に従って選挙を行うという弊害が生じ、ついには国家に大きな害を齎すことになるだろう。今日いまだにローマ・カトリック教を信仰する国においては、女子が僧侶に惑わされて、もっぱら寺院のためにその方向性を誤り、ついには国の独立を犠牲にしようとするに至る者がしばしばいる。いわんや、選挙のことで男女両性のあいだに不和が生じることがあれば、一家には争いごとが絶えず、その不和は、全国に波及することになるだろう。これを恐れる必要があるのか。また、もし一家の主が多く選挙権を有することで国家に利益があるとするならば、その一家の女子には選挙権を与えず、むしろその主である者にその選挙権を与えてもよい。 なお、原文の該当部分は、1870年代のスイスの女性運動 ・ 『国会議員選挙論』
エピソード
著述
筆記
親族