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武者小路 公共(むしゃのこうじ きんとも、1882年(明治15年)8月29日[1] - 1962年(昭和37年)4月21日[1])は、日本の華族、外交官、武者小路家第10代当主。爵位は子爵。位階は正二位。作家・武者小路実篤の兄[1]。 子爵・武者小路実世の三男[1]として東京府東京市麹町区(のち東京都千代田区)に生まれた。1887年(明治20年)に父・実世が肺結核で死去したため、武者小路家の家督と子爵位を継承した。 東京帝国大学法学部を卒業後1907年(明治40年)に外務省入省[1]。上海総領事館勤務をふりだしにルーマニア兼ユーゴスラビア、デンマーク兼スウェーデンの各公使を経て、1933年(昭和8年)に駐トルコ大使、翌1934年(昭和9年)には駐独大使に就任、日独防共協定締結の交渉に当たり、日本側全権として同協定に調印した。 1938年(昭和13年)に外務省を退官[2]。宮内省宗秩寮総裁に転じ[1][2]、同職を1945年(昭和20年)まで務めた。第二次世界大戦後、GHQにより公職追放を受けた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、日独協会会長を務めた[2]。 没後、正二位に叙せられる。三権の長以外では最後の例である。 40年にわたるヨーロッパ勤務の経験をもとにした以下の著作がある。
生涯
栄典
位階
1940年(昭和15年)7月1日 - 従二位[3]
勲章等
1911年(明治44年)8月24日 - 勲六等単光旭日章[4]
1938年(昭和13年)11月2日 - 勲一等旭日大綬章
家族・縁戚
小説家の武者小路実篤は弟。
仏文学者で東京大学名誉教授の武者小路実光は先妻萬子[かずこ](毛利元徳六女)との間に生まれた長男。
旭硝子専務の武者小路公久
政治学者の武者小路公秀は後妻不二子との間に生まれた三男。
歴史学者で和光大学名誉教授の武者小路穣は義理の甥。
公爵西園寺八郎は義兄。
参議院議員西園寺公一は甥。
著書
『欧洲の近情』霞山会館、1935年12月。NDLJP:1092416
『ベルリン・ローマ・東京枢軸 振り返り見る友邦ドイツの姿』日本外交協会、1938年3月。
『滞欧八千一夜』暁書房、1949年11月。
『道草十万里』日本評論社、1951年2月。
武者小路公共、山浦貫一、来間恭、村島帰之、小汀利得、阿部眞之助、片柳忠男、堀内敬三、神崎清、大宅壮一、鈴木進、宮尾しげを、岩崎栄、戸板康二、伊東恭雄、鈴木良徳、弓館小鰐、秀の山勝一、林髞、斎藤三郎 『日本の歩み五十年』早川書房、1951年11月。
『外交裏小路』大日本雄弁会講談社、1952年1月。
『冷戦立見席』大日本雄弁会講談社、1953年5月。
脚注^ a b c d e f 『武者小路 公共』 - コトバンク
^ a b c 『昭和史事典』毎日新聞社〈別冊1億人の昭和史〉、1980年5月、370頁。
^ 『官報』第4066号「叙任及辞令」1940年7月26日。
^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
日本の爵位
先代:
武者小路実世子爵
武者小路家第2代
1887年 - 1947年次代:
華族制度廃止
その他の役職
先代:
新設日独協会会長
初代:1952年 - 1955年次代:
高橋龍太郎