武田麟太郎
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武田 麟太郎
(たけだ りんたろう)

誕生武田 麟太郎(たけだ りんたろう)
1904年 5月9日
大日本帝国大阪府大阪市南区日本橋筋東1丁目(現・浪速区日本橋東1丁目)
死没 (1946-03-31) 1946年3月31日(41歳没)
大日本帝国神奈川県藤沢市片瀬西浜
墓地あきる野市の西多磨霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科甲類卒業
東京帝国大学文学部仏文科
代表作『日本三文オペラ』(1932年)
『市井事』(1933年)
『銀座八丁』(1934年)
『一の酉』(1935年)
『井原西鶴』(1936年)
配偶者留女
子供文章(長男)、穎介(次男)
親族左二郎(父)、すみゑ(母)
影響を受けたもの

井原西鶴徳田秋声泉鏡花
佐藤春夫田山花袋横光利一

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武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年(明治37年)5月9日 - 1946年(昭和21年)3月31日)は、日本小説家。代表作に、『暴力』『日本三文オペラ』『市井事』『井原西鶴』『銀座八丁』『一の酉』などがある[1]。長男は詩人の武田文章(1933-1998)、次男は河出書房の編集者の武田穎介(1935-2001)。
生涯
生い立ち

1904年(明治37年)5月9日大阪府大阪市南区日本橋筋東1丁目(現・浪速区日本橋東1丁目)に、父・左二郎(数え年28歳)と母・すみゑ(21歳)の長男として生まれた[2]。役所には5月15日生まれとして出生届けが出された[2]。この地は貧民窟であった[2]

父・左二郎は岡山県倉敷出身で、天王寺警察署詰めの巡査をしており、同じ交番勤務の霧渡薫の長女・すみゑと知り合い、1902年(明治35年)11月に結婚した。左二郎は巡査のからわら、弁護士を目指し関西法律学校(現・関西大学)を1903年(明治36年)に卒業した。強盗犯などを逮捕し有能な左二郎はその後、境警察署会計主任、東警察署警部となり、麟太郎の下に弟3人、妹3人が生れる[2]

1911年(明治44年)4月、麟太郎は大阪市東平野尋常小学校(現・大阪市立生魂小学校)に入学。この頃、一家は大阪市南区上本町7丁目(現・天王寺区)に住んでいたが、翌年、父が警察署を退職。その少し前に大阪市電の追突事故に遭い、痛めた腰の療養に単身で有馬温泉や故郷に行くなどして3年間無職生活となった。左二郎は弁護士になる夢が捨てきれなかった[2]

武田家は困窮し貧しい生活ながらも、麟太郎の成績は良く、3年生の時には副級長に選ばれ、3年と4年の修了時には学業優等操行佳良の1番上の賞を貰った。5年の1学期には級長に選ばれた。この頃、麟太郎は立川文庫などを耽読した。この年に、父も復職し南警察署詰めの巡査勤務から始め、翌年に警部補となったため安定した収入が得られるようになった[2]

1916年(大正5年)2月、父が住吉警察署の司法主任となり、一家は大阪府東成郡安立町大字安立(現・住之江区安立町1丁目1-20)に転居。5年生の麟太郎は安立尋常小学校(現・大阪市立安立小学校)に転校した。品行方正学業優秀などで修了し、4月に6年に進級し1学期・2学期の級長となった[2]

凄腕の父の指揮により強盗事件が次々と解決し、麟太郎も刑事部屋によく遊びに行っては、父にねだって『英語通弁会話』の本を買ってもらい英語も勉強した。小学校時代には、漢学に興味を持ち、懐徳堂の講義も聴いていた。麟太郎は安立尋常小学校を卒業時に、品行方正学業優秀・精勤賞のほか、大阪府東成郡役所からも品行および学業成績佳良の賞として、算盤を貰った。
中学時代――母の急死

1917年(大正6年)4月、両親の期待を背負って受験合格した大阪府立今宮中学校(現・大阪府立今宮高等学校)に入学。麟太郎は背の低い両親に似て、クラスで1番背丈が低く胴長でずんぐりしていたため、「ちんちくりん」「ちび」と渾名が付けられ、運動が不得意であった[3]。夏休み明け、父は岸和田警察署尾崎分署(現・泉南警察署)の署長となり、一家は転居したため、麟太郎は父の姪夫婦の家や、父の元同僚の村上吉五郎巡査の家に下宿した[3]

麟太郎は村上に連れられて、南区竹屋町の泊園書院で藤沢黄坡(藤沢章二郎。藤沢南岳の次男)の講義を聴きに行き、黄坡の長男で同校の藤沢桓夫と顔見知りとなった。背が高くお洒落で垢ぬけていた恒夫は、小柄な麟太郎を可愛らしく思った[3]

中学の友人らの影響で文学に興味を持った麟太郎は、1919年(大正8年)の3年生の頃は、島田清次郎徳冨蘆花などを読み、小説好きの母・すみゑが愛読していた尾崎紅葉の『金色夜叉』、泉鏡花岩野泡鳴なども読んだ。父の職業の影響でそれ以前にも探偵小説なども読んでいた[3]

1920年(大正9年)正月、『文章世界』新春特別号の「文士録」を見て小説家に成る野心が芽生えた麟太郎は、それを母に告げた。母は、岩野泡鳴くらいに大成しなければ意味がなく、それは困難だろうから、文官高等試験に合格し官吏として堅実な道を行くことを諭した[4][3]

そんな妊娠8か月の身重の母・すみゑが、1月20日、洗濯中に子癇で倒れて21日に病院で死去した。その寒い夜、号泣し悲嘆にくれた麟太郎は「やはり、小説家になろう」と決意した[4]。その後、猩紅熱で寝込んだ麟太郎だったが、無事に3年を修了した[3]

4年になった麟太郎は背が約5センチ伸びたが、母の急死の打撃で授業は欠席がちとなり、様々な文学作品を読み漁っていた。小説家の目標とした岩野泡鳴が自分の誕生日に死んだことで何か因縁を感じ、自分と同様に作文の上手く、よく先生から読み上げられる他のクラスの藤沢桓夫を常に意識していた[3]

シネマが好きだった麟太郎は、妹たちを連れて九条新道の松竹座や敷島倶楽部に行き、チャップリンハロルド・ロイドの映画をよく観ていた。この年の12月に、習作「牛」「銅貨」を書いてみた[3]

1921年(大正10年)、4年の成績は落ちたまま修了し、5年に進級。父の再婚話が倉敷にいる父の姉から持ち込まれ、29歳の美代乃が武田家に後妻としてやって来た。その日、麟太郎は夜遅くまで家に帰って来ず、家族は心配した。妹たちは継母を受け入れたが、麟太郎だけはずっと新しい母に馴染めず、「お母さん」とは呼べなかった[3]。この今宮中学時代に小品「老人」が、『中央文学』1921年5月号の懸賞散文佳作に掲載された。

1922年(大正11年)、今宮中学校を卒業し、同級の藤沢桓夫や小野勇は、新設の大阪高校を受験し合格したが、麟太郎は京都の第三高等学校を受験して失敗した。5月、父と共に池田の豊能郡役所に行き、小学校教員の就職を依頼するが、応募が多く欠員の見込みもないため、やはりもう1度、受験のため浪人することになった[3]

受験勉強の合間に様々な作家の小説を読み、自身も投書雑誌『中学世界』に短編作品を送ったりした。10月には、受験誌『考へ方』に「鈴木君の事」を投稿し、藤森成吉の選考に寄り第一位となった。


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