この項目では、弓術・馬術の武田流について説明しています。合気之術の武田流については「武田流合気之術」をご覧ください。
明治神宮秋の大祭 流鏑馬奉納(2011年11月3日撮影)オバマ米大統領訪日時、明治神宮で披露された武田流(大日本弓馬会)流鏑馬(2014年4月)
武田流 (Takeda Ryu)(たけだりゅう)は弓術(歩射)・馬術(騎射)・礼法などからなる弓馬軍礼故実(弓馬故実・武家故実)の流派。細川流とも呼ばれた。小笠原流と同じく、流鏑馬に代表される弓馬故実を伝える流派である。
現在は起源を細川家肥後藩に身を寄せた武田元明の叔父武田義親から4代若狭武田家24代武田信直と同じくする3団体、武田流騎射流鏑馬(武田流騎射流鏑馬保存会:熊本市)、武田流弓馬道(社団法人大日本弓馬会:鎌倉市)、武田流鎌倉派(日本古式弓馬術協会:鎌倉市)が存在し、それぞれ武田流を名乗り活動している。 各団体の伝承は若干異なるが、概略を述べる。 清和天皇の皇子貞純親王が、朝廷の諸儀礼に通じていた源能有(文徳天皇皇子)から故実を伝授されたのが起源であるという。その後清和源氏を経て 武田氏・小笠原氏に伝えられ、武田氏では安芸武田氏に伝えられた。安芸武田氏が若狭国守護職を得たことから若狭武田氏に伝わり、安土桃山時代に若狭武田氏が滅亡すると、武田信直(吸松斎)から姻戚(下記参照)の細川藤孝(幽斎)に伝授された[1]。 歴代のうち、武田元信・元光・信豊は騎射に優れ、弓馬故実書を書写・著述した[3]。信豊以降の信時・信恭・信直などは一般的な若狭武田氏の系図には見られない人物であり、信直の経歴は不詳である。
歴史
起源?安土桃山時代
細川幽斎までの系譜(太字は若狭武田氏当主)
清和天皇‐貞純親王‐源経基‐満仲‐頼信‐頼義‐義光‐義清‐清光‐武田信義‐信光‐信政‐信時‐信綱‐信宗‐信武‐氏信(安芸武田氏)‐満信‐信繁‐信栄(若狭武田氏)‐信賢‐国信‐信親‐元信‐元光‐信豊‐信時‐義統‐義親[2]‐信恭‐信重‐信直‐細川藤孝
武田流弓馬道(鎌倉)は、「幽斎の妹が安芸武田氏の信重(光広、安国寺恵瓊の父とされる)に嫁した」とし、「信直は光広の弟か」としている[8]。 幽斎の後は細川家で忠興、忠利と継承されたが、忠利は家臣の竹原惟成に継承させた。以後は竹原家が継承し、熊本藩藩校時習館では二条流和歌や礼法とともに武田流の流鏑馬が必修科目とされ、笠懸・犬追物・草鹿
江戸時代
熊本藩には室町幕府の弓馬師範家であった京都小笠原氏(備前小笠原家)もおり、故実を伝えていたが、維新後に活動を停止し、その装束・伝書などは武田流弓馬道(鎌倉)に引き継がれた。 明治維新で武家社会が終焉を迎えると活動を一時中絶するが、竹原家や旧藩士の尽力により保存された。1895年(明治28年)に竹原惟路が没した時に男子がなかったため、細川興増
明治以降
これとは別に、明治?昭和期の高弟、井上平太の系統の団体が存在する。竹原惟路の没後、旧熊本藩主の細川護久侯爵は井上平太に伝書一切を印可相伝させ、「第三十三代武田流司家」を襲名させたという。井上は昭和8年に没し、翌9年に井上の弟子金子有鄰が細川護立侯爵(当時の細川家当主)の許しを得て、細川侯・熊本県知事立会のもと、「三十四代武田流弓馬軍礼故実司家」を相伝した。1939年(昭和14年)には金子堅太郎を会長に社団法人大日本弓馬会が設立された。以来、武田流弓馬道を名乗り鎌倉市に所在し活動している。現会長は金子家教で、「武田流司家、弓馬軍礼故実司家芸州武田氏正統師範」を名乗っている。
また別に、金子有鄰の六郎家堅氏を師範として日本古式弓馬術協会(武田流鎌倉派)が結成され、弓馬軍礼武田家の道統を受継ぎ活動している。[9]。
活動神奈川県逗子市逗子海岸における武田流(大日本弓馬会)の流鏑馬。