武田泰淳
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武田 泰淳
(たけだ たいじゅん)

誕生1912年2月12日
日本東京市本郷区
(現・東京都文京区
死没 (1976-10-05) 1976年10月5日(64歳没)
日本東京都港区西新橋
墓地長泉院知恩院
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京帝国大学支那文科中退
活動期間1943年 - 1976年
ジャンル小説
文学活動第一次戦後派
代表作『蝮のすゑ』(1948年)
風媒花』(1952年)
ひかりごけ』(1954年)
森と湖のまつり』(1955年 - 1958年)
『富士』(1969年 - 1971年)
『快楽』(1972年)
主な受賞歴日本文学大賞(1973年)
野間文芸賞(1976年)
デビュー作『司馬遷』(1943年)
配偶者武田百合子
子供武田花
親族大島泰雄(兄)
渡辺海旭(伯父)
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武田 泰淳(たけだ たいじゅん、1912年明治45年)2月12日 - 1976年昭和51年)10月5日)は、日本小説家浄土宗僧侶。大正大学教授。幼名覚。
紹介

第一次戦後派を代表する作家で、戦前期は左翼運動から離脱後、泰淳と改名。得度した。その後大陸(中華民国)に出征。除隊後、評伝『司馬遷』を経て小説に転じ、『蝮のすゑ』で認められた。その後も思想的重量感を持った作品を発表し、幾屈折もする人間生存の諸相を描き出した。

妻は随筆家の武田百合子、娘は写真家の武田花。兄は水産生物学者・東大教授の大島泰雄。伯父に僧侶仏教学者社会事業家渡辺海旭がいる。
来歴・人物

東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。長い間二男とされていたが、上田女子短期大学教授の長田真紀の研究[1]によって、夭折した次兄・信也がいたことが明らかになった。出生名は覚(さとる)。

父の師にあたる武田芳淳に養子に入り、武田泰淳と姓名を変更する。

京北中学校浦和高等学校[2]を経て東京帝国大学文学部支那文学科に入学[3]竹内好と知り合う。左翼活動を繰り返し、1年の時、中央郵便局でゼネスト呼びかけのビラ配布に参加して逮捕され、1ヶ月ほど警視庁丸ノ内署や本富士署に身柄を拘束される。釈放後に大学を中退し、1934年、魯迅の弟、周作人来日歓迎会を機に、在学中の竹内好らと共に「中国文学研究会」を設立する。

1937年、華中戦線に送られるが2年後に除隊される。1943年、『司馬遷』刊行。同1943年には「中国文学研究会」は解散する[4]。終戦時には上海に滞在していた。日本に帰国して、1947年、『蝮のすゑ』発表。同年、北海道大学法文学部助教授として勤務した。翌年には『近代文学』の同人となり、作家活動に専念するため退職し帰京。

1951年、昭森社の森谷均[5]がオーナーで当時文学者が多く集まっていた神田神保町の喫茶・文壇バーの「ランボオ」で働いていた鈴木百合子との間に子(長女・花)が生まれ、出生に伴い11月に鈴木百合子と結婚。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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