武田惣角
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たけだ そうかく
武田 惣角

生誕1860年11月4日万延元年10月10日
陸奥国河沼郡
死没1943年昭和18年)4月25日
青森県
国籍 日本
別名源正義
職業武術家
流派大東流
身長約150cm
子供武田時宗 ほか
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武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日1859年11月4日) - 昭和18年(1943年4月25日)明治戸籍・現在戸籍は万延元年(1860)生まれ、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者[注釈 1]
生涯.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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生い立ち

会津藩士・武田惣吉の次男として、陸奥国(現在の福島県河沼郡会津坂下町で生まれた。母は黒河内兼規の娘・富。惣吉は宮相撲の力士で、剣術にも秀でていた。

惣角は幼少期から父に相撲柔術宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学んだ。剣術、柔術ともかなりの達人であったらしく、「会津の小天狗」と称される程の実力を持っていたが、学問には関心を示さず、いたずらが過ぎて寺子屋から追放された。

新たな資料として、戊辰戦争の名簿に父竹田惣吉は足軽分(農民)、惣角の実母は斎藤家のトハ、明治戸籍に後妻は藩士黒河内権助の次女タツとある。先祖は斎藤姓、幕末は竹田姓、明治5年戸籍から武田姓になった。

戊辰戦争後、武田家同居人の佐藤金右衛門は、藩主護衛役の御供番で武芸十八般、会津藩御式内の柔術を武田惣角に教えた。孫忠孝は武田惣角とともに小野派一刀流養気館渋谷東馬道場で学んだ。(武田時宗ノートに忠孝の記述がある)

渋谷東馬は戊辰戦争で戦い、明治以降は新政府の監視が厳しく剣術は教えていない。師範代武田善十郎が教え、坂下警察署師範代を務めたと、子孫の資料にある。

武田惣角は双子兄妹で、妹のマンは7歳頃眼病にかかり失明した。父は戦争で留守、実母は病死したため、惣角は妹の世話をしたことで武芸の素質が磨かれた。明治5年戸籍と武田時宗ノートは一致しており、生い立ちは見直しされている。
青年期

13歳の時、父を説得して上京し、父の友人であった直心影流剣術榊原鍵吉の内弟子になった[注釈 2]東京府内の各剣術道場で他流試合を重ね、剣術の他、棒術槍術薙刀術鎖鎌術弓術なども学んだ。

10代後半のとき、兄の武田惣勝が若くして亡くなったことにより、武田家を継ぐために呼び戻されたが、家を飛び出して西南戦争西郷隆盛軍に身を投じようとした。しかし叶わず、西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行した。

明治21年(1888年)、福島県会津坂下町でコンと結婚し、明治22年(1889年)に長女テル、明治24年(1891年)に長男宗清が生まれた後は、また実家を出て放浪の身となった。

現在の原戸籍によると、明治18年5月長女テルが生まれ、隣の佐藤金右衛門の孫コンと結婚した。明治20年12月長男宗清が生まれた。

武田惣角は明治15年の福島の格闘事件から明治29年まで消息不明とされる。実際は瀕死の重傷を負った惣角は自宅に帰り、後遺症に苦しみながらも真言密教・修験道・気合術(気合・合気)・民間療法・九字護身法・易学などを学んだことになる。農民の惣角に唯一すべて教えられる人物が近村の農民・民間療法・天才易者中川万之丞と判明、実名の惣三郎は武田時宗の幼名と同じである。明治31年、農民の身分と借金返済に悩み、霊山神社宮司の保科近悳に相談して大東流を名乗った。借金返済後、妻コンを同行して山形県瀬見温泉で指導した記録がある。したがって、青年期の経歴も見直されている。

明治36年(1903年)、北辰一刀流の剣豪・下江秀太郎と剣術の試合をして、勝ったとも引き分けたともいわれる[注釈 3]
大東流普及

一説によると、明治31年(1898年)、霊山神社宮司をしていた保科近悳から「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、剣術の修行を止めて大東流合気柔術の修行を始めたというが、この伝承史については近年の武術史の研究と調査でほぼ否定されている。

惣角は生涯、道場を持っての教授を行わず、請われれば何処にでも出向き、年齢・出身・身分の差別無く大東流合気柔術の技法を広めた[注釈 4]。明治31年(1898年)以降については、英名録と謝礼録という記録が几帳面につけられているため、いつ、どこで、誰に武術を教授したか、かなり詳細な記録がある。また、全国行脚の最中に様々な他流試合や野試合(いわゆるストリートファイト)を行い、大東流合気柔術の実戦性を証明した。

明治37年、北海道を縄張りとし、樺太から東北六県、新潟から東京まで勢力を伸ばしていた丸茂組を単独で制圧する。

大正4年2月、惣角の門人・吉田幸太郎により、植芝盛平が入門。

昭和4年、海軍大将竹下勇が実話雑誌に、「武田惣角武勇伝」を発表。

昭和5年夏、東京朝日新聞記者尾坂与市が取材。「今ト伝」と称する紹介文が新聞に掲載。

昭和11年4月20日、埼玉県浦和警察署で講習会を開催。

昭和11年夏、大阪朝日新聞社の武道教授に就任。
晩年

大正元年(1912年)ごろ、弟子であった山田スエと北海道で再婚し、武宗、たえ、時宗、榮子、宗光、しずか、宗吉の4男3女をもうけた。以後、北海道を本拠地とするようになった。そして、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に青森県客死した。享年84。
家系

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武田家の来歴、会津藩での地位、惣角の幼少期から青年時代までの経歴については明確な文書記録が非常に乏しく、疑問視する見解も多い。一方で、先祖代々同じ土地に土着する家系が多くを占める農村部の地域社会では、地域の出来事は100年、200年と地域住民で口伝されるため、根拠のない作り話も難しい。武田家や大東流の伝承のすべてが真実でないとしても、何か、話の種となる事実があったことは想像に難くない。
祖先

清和源氏甲斐武田氏の系譜。武田信玄が亡くなった翌年、武田氏と親交があった会津蘆名氏に協力を求めるため、武田氏から蘆名氏に、武田国継が武田信玄の遺書を持って遣わされた。


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