武田修宏
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武田亘弘」あるいは「武田信広」とは別人です。

武田 修宏

名前
愛称タケ
カタカナタケダ ノブヒロ
ラテン文字TAKEDA Nobuhiro
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1967-05-10) 1967年5月10日(57歳)
出身地静岡県浜松市
身長177cm
体重73kg
選手情報
ポジションFW
利き足右足

クラブ1
年クラブ出場(得点)
1986-1992読売サッカークラブ 122 (48)
1992-1995ヴェルディ川崎 117 (60)
1996ジュビロ磐田 24 (4)
1997ヴェルディ川崎 4 (0)
1997京都パープルサンガ 16 (9)
1998-1999ジェフユナイテッド市原 57 (19)
2000ヴェルディ川崎 0 (0)
2000スポルティボ・ルケーニョ 2 (0)
2001東京ヴェルディ 19 (2)
代表歴
1987-1994 日本18 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

武田 修宏(たけだ のぶひろ、1967年〈昭和42年〉5月10日 - )は、日本の元プロサッカー選手、スポーツコメンテーター、タレント。元日本代表Jリーグ通算94ゴール(8位タイ)、日本サッカーリーグ(JSL)新人王、MVP、ベストイレブンはJSL時代3回、Jリーグ時代1回の記録を持つ。
来歴
選手時代
小学 - 高校時代

静岡県浜松市で、トラック運転手の父と看護婦の母との間に生まれる。兄がいる[1]。小学校1年の頃にサッカーを始めた[2]。少年時代から静岡県内では天才サッカー少年と呼ばれ、浜松市立丸塚中学校2年時には東海選抜に選出され全日本選抜中学生サッカー大会で優勝、3年時には日本ジュニアユース代表に選出されシンガポールで開催されたライオンシティカップに出場し、得点王となった。

中学卒業後は地元の浜松を離れ、静岡県立清水東高等学校へ進学。当時越境進学するケースは少なく「故郷を捨てる裏切り者」と新聞に叩かれた[2]。当時の清水東の3年生には清水東三羽烏と称された大榎克己長谷川健太堀池巧らがいるメンバー内で1年時からセンターフォワードのポジションを獲得すると全国高等学校サッカー選手権大会静岡県予選では9得点を挙げる活躍で得点王とMVPを獲得。本大会では5得点を挙げる活躍で準優勝に貢献[2]、大会優秀選手に選ばれ高校選抜の一員としてヨーロッパ遠征に参加した。国体には1年時から出場し、1年時と2年時には準優勝、3年時には中山雅史らと共に参加(中山は当時DFとして参加後述)、準決勝の三重県選抜戦にて7得点を挙げる活躍などで優勝に貢献した[2]。しかし、清水東高では3年時に主将を務めたものの、冬の高校選手権予選では準決勝で敗退した。

日本ユース代表には1年時から選ばれ、1983年のAFCユース選手権予選に出場したが、3年時は年齢制限(1967年8月1日生まれ以降の選手を対象とした)のため代表には招集されていない[3]
JSL時代

高校卒業後の1986年に、静岡第一テレビ(NNN・NNS系列で、読売新聞東京本社日本テレビ放送網などの読売グループが主要株主)の子会社静岡第一ビデオ(現・SDTエンタープライズ)に入社。静岡第一テレビ副社長を兼任していた当時の中平公彦社長の取り計らいもあって社員として勤務する傍ら、静岡第一ビデオからSDT東京支社への出向社員という扱いで日本サッカーリーグ(JSL)1部の読売サッカークラブに入団した[4]。進学校として名高い清水東高校から高卒で実業団入りするのはJリーグ創設以前の当時としては異例であった。この頃は午前中に一般業務を行ってから、小田急線でよみうりランドまで通った[2]。入団初年度からポジションを獲得すると、1986-87シーズンに11得点を挙げる活躍で2シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。この活躍により武田は新人王とベスト11[2]日本年間最優秀選手賞を受賞した。また1987年には日本代表にも選出され[2]ソウルオリンピック予選に出場、第1戦のインドネシア戦で代表デビューを飾ると、この試合で代表初得点を記録した。

これらの活躍で武田は、1987-88シーズンのJSLのPRポスターのモデルに選ばれるなど新たなスター選手として扱われるようになった。またルックスの良さやファッションセンスからサッカー以外の雑誌やテレビで紹介されるようになり、1988年1月15日の成人の日には日本テレビ系列で『サッカー青春賛歌「ストライカーへの道」武田修宏20歳からの挑戦』と題したドキュメンタリー番組が放送されるなど[5]、異例の扱いを受けた。

その後一時期不調に陥るが、1989-90シーズンには13得点を挙げ復活を果たし、翌1990年に代表へ復帰。同年にブラジルから三浦知良が加入すると三浦とのコンビで1990-91、1991-92シーズンのリーグ連覇に貢献した。
Jリーグ発足後

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設に伴い読売クラブがヴェルディ川崎と改組された後も、三浦、ラモス瑠偉北澤豪らと共に中心選手としてチームを支え黄金時代を築いた。1993年5月15日、Jリーグ開幕戦となった横浜マリノス戦で先発したが、前半のみの出場となった。第3節のサンフレッチェ広島戦でJリーグ初得点を挙げた。セカンドステージ、第11節のマリノス戦では決勝ゴールを挙げ[6]、数年間勝利出来ずにいたライバルから勝利した。当時の武田の年俸は1億2千万円と言われ[7]、JSL時代よりも多くの収入を手に入れると共に人気選手として注目を集めた。日本代表にも引き続き選出されたが、ハンス・オフト監督の下では高木琢也や中山雅史といった同年代の選手に比べ出場機会は少なく、控え選手としてベンチを温めることが多かった。後に「ドーハの悲劇」と呼ばれたW杯アメリカ大会のアジア最終予選・イラク戦では試合終盤の81分に中山と交代で出場するも、試合終了間際の致命的な判断ミスがロスタイムでの失点につながり非難を浴びた[2]。その後、1994年のパウロ・ロベルト・ファルカン体制での出場を最後に、日本代表に招集されなくなった。

1996年、武田は出身地の浜松に隣接する磐田市ジュビロ磐田に移籍、磐田では中山雅史サルヴァトーレ・スキラッチがツートップを組んでいたこともあって、オフト監督により、主にDFの右サイドバックとして起用された[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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