凡例武田 信虎
絹本著色武田信虎像(武田信廉画、大泉寺蔵)
時代戦国時代
生誕明応3年1月6日(1494年2月11日)
死没天正2年3月5日(1574年3月27日)
改名信直 → 信虎
別名無人斎道有(法名)
戒名大泉寺殿泰雲存康大庵主
墓所大泉寺
官位従五位下 左京大夫 陸奥守
幕府室町幕府相伴衆、甲斐守護
氏族清和源氏義光流甲斐源氏嫡流武田氏
父母父:武田信縄
母:岩下氏
兄弟信虎、勝沼信友、桜井信貞
武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏第18代当主。武田氏15代当主。 明応3年(1494年)もしくは明応7年(1498年)1月6日、甲斐源氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれる[2]。初名は信直(のぶなお)。 生年の「明応3年説」は江戸時代前期に成立した軍記物『甲陽軍鑑』に天正2年に81歳で死去したとする記述から逆算されたもので、江戸後期に編纂された地誌『甲斐国志』では武田氏に関する記述の多くが『甲陽軍鑑』に拠っており、これを追認している。 また、昭和戦前期には廣瀬廣一が武田信虎の菩提寺である甲府市古府中町の大泉寺過去帳・位牌に記される「天正2年3月5日逝去81歳」から逆算して明応3年を生年としている。 「明応3年説」は昭和戦後期に磯貝正義・上野晴朗・笹本正治・小和田哲男らによって支持されてきたが、2006年には秋山敬が『高白斎記(甲陽日記)』や『大井俣神社本紀』に記される明応7年正月6日であった可能性を指摘している[3]。平山優も大正時代に原本は焼失したものの、『甲斐国志』にその引用が残されている古長禅寺所蔵の『武田信虎誕生疏』が『大井俣神社本紀』の記事を裏付けるものである[注釈 1]としている[4]。 なお、武田信虎の母に関しては古くは『甲斐国志』の記事により信縄正室の崇昌院と考えられてきた(人物部第三)が、一方で信縄側室の岩下氏の出身地である岩下村(現在の山梨県笛吹市春日居町岩下)に武田信虎の誕生屋敷があるとも記されてきた(古跡部第一)。 ところが、廣瀬廣一が信虎の祖父である武田信昌の菩提寺であった永昌院の住持であった菊隠瑞潭
生涯
信虎の出生と生年
また、平山優は崇昌院生母説の根拠の1つとされてきた高野山十輪院の『武田家過去帳』にある彼女を「甲州武田信虎御母様」と表記に疑問を呈し、「御母様」という表現になっているのは崇昌院が信虎の生母ではなく、側室所生の武田信虎を正室である彼女の子として位置づけたことによるものである、と指摘している。
また、平成20年(2008年)に山梨県笛吹市が実際に誕生屋敷の伝承地を発掘調査をしたところ、16世紀初頭の武家屋敷とみられる遺構の存在が確認されており、少なくても岩下氏の一族がここに屋敷を構えていた事実は確認されている[6]。 室町時代の甲斐国では、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に守護・武田信満が加担して滅亡したことをきっかけに守護不在状態となり、河内地方の穴山氏や郡内地方の小山田氏らの国人勢力や守護代・跡部氏らが台頭し、乱国状態となっていた[7]。寛正6年(1465年)7月には守護・武田信昌が跡部景家を滅亡させると甲斐国内の実権を握り、明応元年(1492年)には信昌の嫡男・信縄が家督を相続した。信昌は山梨郡落合(山梨市落合)において隠居すると、信縄の弟である油川信恵に家督を譲る意志を示し、家中は信昌・信恵派と信縄派に分裂した。信縄・信恵間の抗争は両者に甲斐国人が属したほか対外勢力とも関係し、伊豆国の堀越公方では内紛が発生し、駿河国の今川氏親と、将軍足利義澄の命を受けた伊勢宗瑞(北条早雲)により足利茶々丸が追放されると信縄は茶々丸を支持し、さらに上野国の山内上杉氏とも結んだ[8][9]。対して信恵は駿河国の今川氏親・伊豆国の伊勢宗瑞と結び対立した[10][8]。 明応7年(1498年)8月25日に発生した明応地震の影響により信縄・信恵間には和睦が成立し、『王代記』によれば甲斐都留郡の吉田(富士吉田市)に亡命していた足利茶々丸は伊勢宗瑞に引き渡されて切腹した[8]。信縄が家督を継承し、永正2年(1505年)9月16日に信昌が死去し、『菊隠録
武田宗家の統一
信直の叔父にあたる信恵は弟の岩手縄美・栗原昌種(惣次郎)や都留郡の国衆・小山田弥太郎のほか、河村氏・工藤氏・上条氏らと結び、信直に対抗した[13]。永正4年(1507年)に信縄が没すると、信恵派は挙兵するが、永正5年(1508年)10月4日の勝山城の戦い(笛吹市境川町坊ヶ峰)において信恵方は大敗し、信恵自身のみならず岩手縄美や栗原昌種・河村左衛門尉、信恵子息の弥九郎・清九郎・珍宝丸らが戦死した[13]。これにより武田信直(信虎)による武田宗家の統一が達成される。