武田信玄
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「武田信玄」のその他の用法については「武田信玄 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「武田晴信」はこの項目へ転送されています。若狭武田氏の当主については「武田義統」をご覧ください。

 凡例武田 信玄 / 武田 晴信
武田晴信像(高野山持明院蔵)
時代戦国時代室町時代後期)
生誕大永元年11月3日[1]1521年12月1日
死没元亀4年4月12日[2][3]1573年5月13日)(53歳没[2][3]
改名太郎(幼名・通称)→晴信→機山(道号)→徳栄軒信玄(法号・法名)
別名勝千代[注釈 1]
戒名法性院機山徳栄軒信玄
墓所武田神社、信玄墓、大泉寺恵林寺諏訪湖長岳寺竜雲寺高野山、福田寺、妙心寺
官位従四位下[3]大膳大夫[3]信濃[3]
従三位
幕府室町幕府甲斐守護職・信濃守護職
氏族清和源氏義光河内源氏甲斐源氏嫡流武田氏
父母父:武田信虎
母:大井の方
兄弟竹松、信玄、犬千代信繁信基信廉信顕一条信龍宗智松尾信是河窪信実信友定恵院、南松院殿(穴山信友正室)、禰々、花光院(浦野友久室)、亀御料人(大井信為正室)、女(下条信氏正室)、女(禰津常安室)、女(葛山氏室)、菊御料人(菊亭晴季室)
正室:上杉の方(上杉朝興の娘)[4]
継室三条の方
側室諏訪御料人禰津御寮人油川夫人ほか
義信海野信親信之黄梅院見性院穴山梅雪室)、勝頼真理姫(木曽義昌正室)木曾義昌室)、仁科盛信葛山信貞信清松姫菊姫上杉景勝室)、波瑠(岩間六兵衛正室)
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武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代武将甲斐守護大名戦国大名甲斐源氏第19代当主。武田氏の第16代当主。は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。

甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江三河美濃飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。
生涯
出生から甲斐守護継承まで積翠寺にある、信玄公産湯の井戸

大永元年(1521年)11月3日[1]甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎[注釈 2]

信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている[注釈 3]

また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を滅ぼすなど[5]、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。

傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守傅役であったと伝わる。
甲斐武田家の嫡男

大永3年(1523年)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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