武漢国民政府
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武漢国民政府(ぶかんこくみんせいふ)

1926年?1927年の間、武漢に存在した国共合作政権。単に武漢政府とも呼ばれる。本項で説明。

1937年?1938年の間の南京国民政府の別称 。日中戦争時に、南京政府が武漢へと遷都していた時期の呼称。

概要

1926年?介石率いる国民革命軍北伐軍が武漢を占領し、同年12月汪兆銘らの国民党左派共産党のメンバーと提携、広州国民政府広東政府)が広州から武漢に遷都して成立した。

1927年4月に?介石ら国民党右派反共クーデターを起こし(上海クーデター)、南京国民政府を樹立して共産党を弾圧、対立した。その後、経済不安や土地革命をめぐる共産党との対立によって、武漢政府も共産党を弾圧して同年7月に反共方針を明確化(国共分離)・分裂し、同年9月に南京政府に合流した。
沿革
広東国民政府と中山艦事件「中山艦事件」も参照汪兆銘

1925年3月の孫文の死去後、その後継者として汪兆銘広東で国民政府常務委員会委員長と軍事委員会主席を兼任した[1][2]。この政府は中国国民党右派を排除したもので、毛沢東中国共産党の党員も参加していた[3]。なお、中国共産党中央委員候補であった毛沢東を国民党中央宣伝部長代理に任命したのは汪兆銘であった[4]

広州国民政府は、列国からの承認は得なかったものの、国民党が直接掌握し、政治・軍事・財政・外交を統括する機関として、来たるべき全国統一政権の規範となるものであった[5]。汪を委員長とする政府は、五・三〇事件から派生した香港海員スト(省港大罷工)の支援にみられるように民主的側面をもっており、汪は広州を国民革命の拠点とすることに成功した[3]。しかし、国共両党間の主導権争いがつづく情勢のなか、1926年3月20日?介石戒厳令を布き、共産党員を逮捕し、ソビエト連邦顧問団の住居と省港ストライキ委員会を包囲する中山艦事件(三・二○事件)を起こすと、汪?間の対立が激化した[2][5]。これは、軍艦中山艦の動静をみた?介石が、共産党側によるクーデター準備ではないかと疑念をいだいて起こしたものであった[6]。この事件によって、?は国民政府連席会議において軍事委員会主席に選ばれ、党や軍における権勢を拡大させたため、汪はこれを不服とし、自ら職責を辞任してフランスに外遊した[2][5][7]。一方、共産党側の活動は大きく制限された[6]
国民党の左右対立と武漢遷都

1926年7月、?介石はみずから国民革命軍総司令となって、いわゆる「北伐」を開始した[2][3]。?を中心とする新右派は中国共産党の抑圧を図ったが、共産党が?に譲歩して北伐に同意した[2][3]。また、すでに軍権を掌握した?介石は政権をも握ろうとして江西省南昌への遷都を図ったが、反?の左派と共産派はこれに抵抗し、1927年1月、湖北省武漢への遷都を強行した[2][3]。そして、武漢国民政府の第二期三中全会で総司令職を廃して?介石を一軍事委員に格下げし、国民党と政府の大権を汪兆銘に託して?介石に対抗しようとした[2][3]
上海クーデターと汪の変心?介石「上海クーデター」も参照

党や軍での権力を確立したかにみえた?介石であったが、それまで党内業務に関係していなかった?が共産党員も内部にかかえた党を取り仕切るのは困難で、1927年3月、?は汪兆銘にフランスからの帰国を要請した[2][7]。国民党左派と共産党は、3月で武漢でひらかれた国民党第二期第三回中央委員会で優位を確保したのに対し、?介石ら国民革命軍主流は、上海財界の支持を背景に林森ら国民党西山会議派とも提携して、これに対抗した[8]

?の招電に応じて4月1日に上海に到着し、再帰国した汪は、中央常務委員、組織部長に返り咲いた[1][7]。汪はただちに中国共産党との話し合いに入った[7]4月5日、汪兆銘は共産党の中心人物である陳独秀とともに「中国国民党の多数の同志、およそ中国共産党の理論およびその中国国民党に対する真実の態度を了解する人々は、だれも?総理の連共政策をうたがうことはできない」との共同声明(汪・陳共同声明)を発表した[4][7][9]。この声明は、汪が国民党内でも?とのあいだに路線対立があることをなかば認め、共産党は汪との協力のもとで?排斥の立場にあることを示唆しつつ、?が容共政策を採ることを求める内容であった[9]。しかし、結局、?介石と共産党との調停には成功しなかった[7]

4月12日、?介石は反共クーデター(上海クーデター)を断行し、共産党弾圧に乗り出した[4][7][8]。?介石と李宗仁の軍が、共産党系の労働団体である上海総工会の武装行動隊を武装解除し、流血の惨事となったのである[8]。これは、3月に南京入城を果たした国民革命軍日本イギリス領事館アメリカ合衆国系の大学などに侵入して略奪や暴行をはたらいた南京事件の背後に、反帝国主義を掲げる中国共産党やソ連人顧問の暗躍があると?が判断し、危惧したために引き起こされたともいわれている[4]

4月18日、?介石は江蘇省南京に反共を掲げる新しい国民政府を組織して、共産党の影響の強い武漢国民政府から離脱した[8][10]


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