武満 徹
武満徹(1961年)
基本情報
生誕 (1930-10-08) 1930年10月8日
日本・東京府東京市本郷区
(現:東京都文京区)
死没 (1996-02-20) 1996年2月20日(65歳没)
日本・東京都港区
学歴富士前尋常小学校
京華中学校(旧制)
ジャンル現代音楽、映画音楽
職業作曲家
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武満 徹(たけみつ とおる、1930年〈昭和5年〉10月8日 - 1996年〈平成8年〉2月20日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。
ほとんど独学[注釈 1]で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた「ノヴェンバー・ステップス」によって、日本を代表する現代音楽家となった。 1930年10月8日に東京市本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目)で生まれる。父は鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険
人物・来歴
デビューまで
生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。大連には小学校に上がるまでの6年間を過ごしたが、1937年、小学校入学のために単身帰国し、叔母の家に預けられ、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学[注釈 2]、終戦まで7年間にわたって叔母の家に寄留する。両親は戦争開始直前に帰国し父の郷里の鹿児島にいたが、父がすぐに亡くなったため、武満の父との触れ合いはほとんどなかった。母は、父が亡くなった後上京するも、生計を立てるため武満とは別に暮らした[4]。叔母の家は「日本的に入り組んでいる家」(武満)で、株屋だった叔父はほとんど家に帰らず、道楽に明け暮れた。年上の従兄が4人おり、下の2人に武満は影響を受けた[4]。叔母は生田流箏曲の師匠で、初期の習作的な作品「二つの小品」(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる[5][注釈 3]。小学1年生の頃、当時一番下の従兄から、「諧調だ、諧調だな、おい聴け」などと言われて、手回しの蓄音機でベートーヴェンの「月光ソナタ」やメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」などのきわめてポピュラーなクラシック音楽を聴かされたが、武満自身は「なんとつまらないものを聴いてるんだろう」と感じたという。[4][6]、この従兄はその一方で、1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会にも足を運び、後に武満が作曲を師事する清瀬保二の「ヴァイオリンソナタ第1番」のような、当時としては珍しい新しい音楽にも感動していたとされる[7]。道楽者の叔父は外に女を作り、そのため叔母は度々ヒステリーを起こし、その都度武満に辛く当たった。そのため、武満の中には叔母のやっている琴そのものへの嫌悪感が生じ、後年日本の伝統音楽に興味を抱いた後も、琴だけはいくら頼まれても作曲する気になれなかったと語っている[4]。
1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった[8]。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある[8]。在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた[注釈 4]リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」(Parlez-moi d'amour
)[注釈 5]を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の「鳥は星型の庭に降りる」、「遠い呼び声の彼方へ!」など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している[9]。戦争中は予科練を受験[8]。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった[10]。一度、母の家に泊まりに行った際には、ちょうど空襲があり、焼夷弾が落ち始めた。子供の武満は外へ逃げる際に、父の位牌を大切なものだと判断し、持って出ようとしたところ、母が「そんなもの持って出ても今さらしようがないでしょう」と言って位牌を取り上げ、ポーンと外に放り投げた。武満はびっくりしたが、今度は久しぶりに泊まりに来た武満のため、おりしも食べる間際だった、当時貴重だった小豆と砂糖で母が作っていた汁粉の鍋を持ち出そうとしたところ、戸口でつまずいて全部道にこぼしてしまった。母は、武満が音楽の道へ進むことに反対はしなかったが、武満の音楽を1度も聴いたことはなかった。最初の作品が日比谷公会堂で演奏された際にも「聴きたくない」と言った。しかし、映画音楽を作曲を担当した映画は見た。純音楽に関しては「そんな金になんないものをやって・・・、そんなものは聴きたくない」と位牌同様の扱いであった。「うんとお金になる映画音楽をやった方がみんなが喜ぶのに、何でそんな頭の痛くなるようなことをやって、自分で苦しんでいるのかわからない」と言った。谷川俊太郎は「君のおふくろは見事だよな。全然来ないんだから」などといつも言っていた。この母は、1984年に78歳で亡くなる[4]。
音楽への目覚め