武末 悉昌西鉄時代(1950年)
基本情報
国籍 日本
出身地福岡県筑紫郡那珂川町(現:那珂川市)[1]
生年月日 (1922-10-04) 1922年10月4日
没年月日 (1998-06-02) 1998年6月2日(75歳没)
身長
体重170 cm
65 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1949年
初出場1949年
最終出場1955年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
筑紫中学校
大連高等商業学校
満協中央銀行
福岡銀行
杵島炭鉱
西日本鉄道
南海ホークス (1949)
西鉄クリッパース
西鉄ライオンズ (1950 - 1953)
高橋ユニオンズ
トンボユニオンズ (1954 - 1955)
監督・コーチ歴
西鉄ライオンズ (1962 - 1971)
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武末 悉昌(たけすえ よしまさ[2]、1922年10月4日 - 1998年6月2日[1])は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
名前は、悉昌を音読みして「しっしょう」とも称した[3]。 旧制 筑紫中学(現・福岡県立筑紫丘高等学校)を卒業後、野球を続けるために旧満州に渡り、大連高等商業学校を経て、満協中央銀行に入る。その後、1944年に召集令状を受け取り、関東軍に経理将校として召集される。1945年に終戦。復員後、福岡銀行、杵島炭鉱、西日本鉄道の野球部で活躍する。アンダースローに転向。これが運命を決定的に変える。 武末は1948年の第19回都市対抗野球大会に西日本鉄道のエース投手として出場。準々決勝で大島信雄投手の大塚産業を、準決勝で野村武史投手の豊岡物産を破って決勝に進出。決勝の相手の星野組はエース投手の荒巻淳を骨折で欠いてはいたものの、西本幸雄一塁手・今久留主淳三塁手・今久留主功二塁手・永利勇吉捕手など、後にプロ野球界に進む野手6人のいる強力チームで(翌年の第20回大会では優勝)、これを4安打1点に抑えて優勝。この大会での武末は胆嚢炎を患っていたが、痛みをこらえて延長戦1試合を含む全5試合を一人で投げ切った。 1949年、黄金時代を迎えつつあった山本(鶴岡)一人監督率いる南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団[1]。プロ入りをめぐっては、南海と大阪タイガース(阪神)とが争った。後年の武末の回想によると、タイガースに入団することを決意して来阪し、阪神の球団事務所を訪れたが、女性の事務員以外は不在で話が要領を得なかったため、南海の球団事務所に赴いて契約するに至ったという[4]。この入団時の経緯は、江藤晴康の二重契約問題につながることとなった(詳細は江藤の項目を参照)。 1年目に21勝17敗の好成績で最多奪三振を獲得。アンダースローの元祖と呼ばれる[注 1]。この年の日米野球においてサンフランシスコ・シールズ相手に10月29日の第6戦(ステート・サイド・パーク)で好投、「スパイクの横からボールが来た」「マウンドの土の中からボールが浮き上がってきた」と震撼させた。 しかし、交際女性との口論からアンダースロー投手の生命線である右手首を切られる事件に巻き込まれ、再起を危ぶまれる。このこともあり、翌1950年のリーグ分裂・新規球団多数参入に際し、西鉄クリッパース(現・埼玉西武ライオンズ)へ移籍する[1]。故郷に戻った武末は心機一転、前年の驚異的成績から数字は落としたが、チーム勝ち頭となる12勝を挙げる。 1951年、セントラル・リーグ加盟の西日本パイレーツと合併し、新たに西鉄ライオンズが誕生。監督に名将・三原脩が就任する。前年とこの年の活躍から第1回オールスターゲームに出場を果たした[1]が、1952年からは成績が低迷。
経歴