武帝_(漢)
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武帝 劉徹
前漢
第7代皇帝

王朝前漢
在位期間景帝後3年1月27日 - 後元2年2月14日
前141年3月9日 - 前87年3月29日
都城長安
姓・諱劉徹
諡号孝武皇帝
廟号世宗
生年景帝元年(前156年
没年後元2年2月14日
前87年3月29日
景帝
王皇后
后妃陳皇后
衛皇后
陵墓茂陵
年号建元 : 前140年 - 前135年
元光 : 前134年 - 前129年
元朔 : 前128年 - 前123年
元狩 : 前122年 - 前117年
元鼎 : 前117年 - 前111年
元封 : 前110年 - 前105年
太初 : 前104年 - 前101年
天漢 : 前100年 - 前97年
太始 : 前96年 - 前93年
征和 : 前92年 - 前89年
後元 : 前88年 - 前87年

武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝匈奴討伐などで前漢の最大版図を築いた。
生涯

景帝の九男[1]。紀元前141年の景帝の崩御とともに16歳で即位した[1]。即位当初は文帝の皇后であった竇太后が実権を握っていたが、竇太后が死ぬと武帝は自ら親政を始める[2]。文帝・景帝の時代のいわゆる文景の治によって国庫には銭・食料ともに大量の蓄積があったと伝えられている[1]。この蓄積を元に武帝がまず着手したのが国初以来の課題であった匈奴である[2]
外征
対匈奴漢匈奴勢力図

高祖劉邦のときに高祖親征軍が冒頓単于率いる匈奴軍に大敗したこと(白登山の戦い)で「匈奴と漢は兄弟となる」「漢の公主を匈奴単于の閼氏とする」「漢から匈奴に対して毎年贈り物をする」という条件で和約が結ばれ[3][4]、その後も何度か交戦と和議が繰り返されたが、概ね匈奴の優勢な状態が続いた[5]。この状態に不満を持っていた武帝は匈奴討伐の前段階として公孫弘を匈奴に派遣して偵察を行わせたり、また張騫を西の大月氏に派遣して同盟を結ぼうとした(#西域で後述)[6]

そして紀元前133年、馬邑[2]の土豪の聶壱という者が考案した策に乗って対匈奴戦争の端緒が開かれた[7][2]。策というのは馬邑が匈奴に降るという偽りを匈奴の軍臣単于(冒頓単于の孫)に伝え、軍臣が馬邑を受け取りに来たところを殺してしまおうというものであった[6][2]。軍臣単于は馬邑の近くまで寄ったものの途中で異常に気づいて引き返してしまい、策戦は失敗に終わった[6][8](馬邑の役(中国語版))。

これにより匈奴は完全に戦闘状態に入り、毎年のように漢の領土を荒らし回り、漢も本格的な戦争へと突入していく[6][9]。この戦争で活躍したのが衛青霍去病という二人の名将である。衛青は武帝の寵姫の衛子夫(後に皇后)の同母異父弟で奴隷身分の出身であったが衛子夫を召す時に、一緒に武帝に登用された[10]。紀元前129年に衛青と他三人の将軍に一万ずつ兵を預けて匈奴へ出撃させた。他の将軍が失敗する中で衛青だけが敵の首級数百を獲得する戦果を挙げた。この後、5度に渡って出撃を行い、オルドス地方を制圧・匈奴の右賢王を敗走させるなど赫々たる武功を挙げて大将軍とされた[6][11]。第7回からは衛青のおいである霍去病が主役となる。5回・6回目の出撃の時にまだ20歳に満たないながら衛青に従って軍功を挙げている[6][12]。そして紀元前121年には驃騎将軍とされて春・夏の二回出撃。匈奴の渾邪王を降伏させ、数万の大軍をそのまま長安に連行し、渾邪王の故地には新たに四郡が置かれた[13]。次の第八回遠征では衛青・霍去病二人共に五万騎の兵を率いて匈奴の本拠地を攻めた。衛青は単于の本隊を撃破して北に追い、霍去病も匈奴の王・高官の多数の捕虜を得た[14][15]。この功績により二人共に大司馬とされる[14][16]。この後は匈奴の活動は下火になり、しばらくの間は長城付近には姿を見せなくなった[14][17]

しかし張騫の行動により、西域諸国と漢とが繋がるようになると匈奴はこれを警戒して、西域諸国に対して圧力をかけるようになる[18][19]。その後、互いの間で交渉が行われるも不調に終わり、紀元前103年に戦闘が再開される[18][19]。この時、衛青も霍去病もすでに亡く[注釈 1]、匈奴戦の主体となったのは李広利将軍であった。

李広利は武帝の寵姫の李夫人の兄で、大宛遠征で汗血馬を獲得するなどの功績を挙げていた[21][22]。前103年の戦いは大敗に終わり[19]、その後双方から使者の往復が行われた。蘇武が匈奴に囚われたのがこの時期の紀元前100年のことである[18][19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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