武島羽衣
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武島羽衣
明治39年撮影
ペンネーム武島羽衣
誕生武島又次郎
(1872-12-02) 1872年12月2日
東京府日本橋
死没 (1967-02-03) 1967年2月3日(94歳没)
東京都練馬区小竹町
墓地雑司ヶ谷霊園
職業歌人詩人国文学者
国籍 日本
最終学歴東京帝国大学文科大学卒業
東京帝国大学大学院
文学活動宮内省御歌所寄人
代表作『美文韻文 花紅葉』(塩井雨江大町桂月との共著)
唱歌」、「美しき天然
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武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月2日[1][2][註 1]1872年12月2日) - 昭和42年(1967年2月3日)は、日本の国文学者歌人作詞家日本女子大学名誉教授[1]宮内省御歌所寄人も務めた。本名は武島 又次郎[1]瀧廉太郎の歌曲「」の作詞者として知られている。
来歴・人物

明治5年(1872年)、東京府日本橋の木綿問屋に生まれる[1][4]

東京府尋常中学一高を経て、明治26年(1893年)に東京帝国大学文科大学(現在の東京大学)国文科に入学し黒川真頼物集高見らに師事する。大学在学中の明治28年(1895年)には大町桂月塩井雨江と共に『帝国文学』の創刊に関与して編集委員となり、詩『小夜帖』や文章などを発表した[1][3]。『小夜帖』は高山樗牛から絶賛され、これにより彼の詩人としての名声が高まった。翌明治29年(1896年)には桂月、雨江との共著『美文韻文 花紅葉』を博文館から出版し[3]、大学派(赤門派)と称された[2]。同年に東京帝国大学文科大学を卒業した。卒業後は大学院に進学し上田万年に師事する[1][3]

明治30年(1897年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教員となり、後に同教授へと進んだ[1][4]。尋常小学唱歌編集(作詞)委員を務め[5]、明治33年(1900年)に東京音楽学校の助教授であった滝廉太郎とともに、唱歌』を発表した[4]。また、明治34年(1901年)には小学校国語教科書「新編国語読本」に詩を掲載し、田中穂積がこれに曲を付けて翌明治35年(1902年)に唱歌『美しき天然』として発表された[6]。これらは広く愛唱されることとなった[7]。また、大正3年(1914年)には十和田市立沢田小学校の校歌[3]、昭和27年(1952年)には練馬区立旭丘中学校の校歌を作詞している[8]

明治43年(1910年)から昭和36年(1961年)の退職まで50年以上に亘り日本女子大学で教授として教鞭を執り[4][9]、同時期に聖心女子大学実践女子大学でも国文学を講じるなどして女子教育に尽力した[1][3][10]。また、大正大学創立時にも国文学を担当している。このほか、東京女子高等師範学校東京高等師範学校国学院大学などでも教授や講師を歴任した[1][11]。大正11年(1922年)から昭和21年(1946年)にかけて宮内省御歌所寄人に奉職した[9]。昭和42年(1967年)2月3日、東京都練馬区小竹町の自宅にて死去した[1][3]。94歳没[4]。墓地は東京雑司ヶ谷霊園にある。

折口信夫(釈迢空)の和歌『葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり』を「幼稚な歌だ」と批判し、「心なく 山道を行きし 人あらむ ふみしだかれぬ 白き葛花」と添削したことによって、折口の「あたらし」を「新し」ではなく「愛惜し」と誤解したこと、また、紅紫色の葛の花を「白き」とした無知によって、歌壇から失笑された逸話が残されている。
著書
単著

『国歌評釈』 巻1、
明治書院、1898年8月。NDLJP:873353。 

『国歌評釈』 巻2、明治書院、1899年1月。NDLJP:873354。 

『国歌評釈』 巻3、明治書院、1899年11月。NDLJP:873355。 


『修辞学』博文館〈帝国百科全書 第11編〉、1898年9月。NDLJP:864857。 

『新撰詠歌法』明治書院、1899年1月。NDLJP:873573。 

『新井白石』博文館〈少年読本 第14編〉、1899年9月。 

『教育勅語唱歌』大倉書店、1900年11月。NDLJP:855113。 

『霓裳歌話』博文館、1900年6月。NDLJP:873221。 

『地理教育 東京唱歌』 第1集、小山作之助作曲、大倉書店、1900年9月。NDLJP:855609。


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